Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.5.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


「教談大塩後素」
その2
野口復堂(野口善四郎)

『通俗教談集 第一集』大倉書店 1912 所収

◇禁転載◇

 管理人註
   

其後忰の頼三樹が「空手欲妖星脚落来江戸城」で幕吏獄刀の                 ござ 錆と消へましたも、因縁浅からずで厶ります。山陽が日本外史を中斎後素 に贈りました時、後素は返礼として、月山作の九寸五分を与へました、山 陽は喜んで「君観吾心吾佩君心、百歳不蠧又不」実に巧みに言つ                まこと たもので、単に巧み計りでない、真に心友の実を示して居る、山陽は政記 や外史で勤王心に刺戟を与へ、後素は飢饉救済の動機に接し、五七の桐の 紋所、下に二引の旗推し立て、三段二十三人の小勢にて、天下鼎の軽重を                           ゆる       すた 尋ねました。果せる哉、鼎は軽い、昌平二百有余年、武は弛み、文は廃れ、 殆んど見る蔭もない、学者は蕩々として、曲学阿世佐藤一斎が後素著の洗                      ようこう 心洞箚記を贈られ、之に答ふる書中の一節に「姚江之書、元より読候得共、     しんぺん        すべて 只自己之箴に致し候のみにて都而之教授は並之宋説計に候、殊に林氏家          さわり 学も有之候得ば、其碍にも相成、人之疑惑を生じ候事故、余り別説も唱不 申候事に候」と、諸君如何で厶ります、一代の鴻儒と言はれた一斎先生も 「人之疑惑」を恐れ「林氏家学の碍り」を怖れ「並々教授の宋説」より外 を語るを憚り「自己の箴」に供する丈で、進んで広く、世人の箴に供 する丈けの勇気は皆無なんで厶ります。


頼三樹三郎
(1825〜1859)





河村与一郎
『警世矯俗
大塩平八郎伝』
その81











幸田成友
『大塩平八郎』
 その19


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