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其後忰の頼三樹が「排空手欲払妖星失脚落来江戸城」で幕吏獄刀の
ござ
錆と消へましたも、因縁浅からずで厶ります。山陽が日本外史を中斎後素
に贈りました時、後素は返礼として、月山作の九寸五分を与へました、山
陽は喜んで「君観吾心吾佩君心、百歳不蠧又不折」実に巧みに言つ
まこと
たもので、単に巧み計りでない、真に心友の実を示して居る、山陽は政記
や外史で勤王心に刺戟を与へ、後素は飢饉救済の動機に接し、五七の桐の
紋所、下に二引の旗推し立て、三段二十三人の小勢にて、天下鼎の軽重を
ゆる すた
尋ねました。果せる哉、鼎は軽い、昌平二百有余年、武は弛み、文は廃れ、
殆んど見る蔭もない、学者は蕩々として、曲学阿世佐藤一斎が後素著の洗
ようこう
心洞箚記を贈られ、之に答ふる書中の一節に「姚江之書、元より読候得共、
しんぺん すべて
只自己之箴に致し候のみにて都而之教授は並之宋説計に候、殊に林氏家
さわり
学も有之候得ば、其碍にも相成、人之疑惑を生じ候事故、余り別説も唱不
申候事に候」と、諸君如何で厶ります、一代の鴻儒と言はれた一斎先生も
「人之疑惑」を恐れ「林氏家学の碍り」を怖れ「並々教授の宋説」より外
を語るを憚り「自己の箴」に供する丈で、進んで広く、世人の箴に供
する丈けの勇気は皆無なんで厶ります。
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頼三樹三郎
(1825〜1859)
河村与一郎
『警世矯俗
大塩平八郎伝』
その81
幸田成友
『大塩平八郎』
その19
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