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Y君も不思議と緊張して
『実は先生!斯うなんです。此間一寸した用事で六甲山腹の船坂村へ行
かね い くれ しゝ お
きましたら予て知つてゐる虎公と名ふ猟師の話に、「或年の冬、猪を逐
からと つ
うて唐櫃六甲の森林を突つ走つてゐると、不図大きな墓が目に触いたの
めじるし しをり あく あらた
で、変に思つて目標の為、枝折を作つて置いて翌る朝、更めて見に行つ
ど みつか つま
たが、何ういふものか、幾ら探しても見附らぬので、狐にでも魅まれた
も
のではないかしら………」と、変な気になつたさうです。それから既う
きのふ
四五年も経つので、スツカリ忘れてゐたのに、昨日小桜巳之吉と云つて、
永らく船坂に来てゐる山働きですが、その男が、「大塩平八郎の墓を見
えら い
つけたたしかに見つけた。』と豪さうに叫つてゐるのを聞いて、その猟
かう/\
師が前言つた墓の事を思ひ出し、「斯々いふ格好の、背が高いかうした
い
墓であらう。」と聞きますと、「全くそれに違ひない!」と応ふ。それ
でモウ一度二人連れで、見に行かうと言つてましたが……………』
イリユージヨン レアツピア
Y君の話を聞いてる間、例の 幻想 は鋭く僕の脳裡に復現した。その幻
あたか レベレーシヨン
想は宛も神来の 黙示 であるかの如く思はれてゐる矢先き、其処に中斎の
墓を実見したと云ふ二人の証人があると聞かされた僕には、もう寸毫の疑
惑も無かつた。
あたりまへ
『そら君!仏壇に仏像があるのは当然ぢやないかね。』
い ろ
『しめた!』と思ふ心を顔色にも出さず、おさまり返つて僕が斯う曰ふ
と、
そんな たしか
『おや爾麼に確実なのですか。』
『確実な所か、池田北裏、多田村の満仲院に満仲の墓が在り、箕面在の
萱野村の萱野三平の墓が在るのよりも、阿波の里浦に清少納言の遺跡の
あるのよりも、宇治の猿丸に猿丸太夫の遺跡があるのよりも、大阪下寺
町生玉下の浄国寺に夕霧の墓があり、桜之宮の大長寺に小春治兵衛の墓
があり、中寺町五丁目妙法寺に近松の墓があり、上本町五丁目の誓願寺
たしか
に中井履軒や井原西鶴の墓があるのよりも確実だよ。』
よ
『さうですか。私は大塩の事など、余り知らないものですから、可い加
減に聞いてゐましたが…………イヤ成程、さう承はると、思ひ当ること
わい あ
があります哩。御存知かも知れませんが、生瀬から船坂へ登る彼の「大
かなり
多田川」の上流に、「御前浜」と云つて、相応広い一区域があります。
ちやうど
恰度去年の今頃ですが、私の知つてる男が其処から錆びた刀の折れッ端
こづか ふる
や小なんか拾つて来ました。鑑定の結果、それは格別旧い物ではなく、
うづ
七八十年ぐらゐ土中に埋もつてゐたらしいと云ふ事でしたが、或は大塩
あたり
一味の者が其処等辺に隠れてゐたのかも知れませんね。』
からと くだ
『僕が若い時、神戸の摩耶山から唐櫃六甲へ廻つて唐櫃村へ降つた時、
あの おふぎまち ぎよう てんよ ひ
彼村に慥か人皇二十八代正親町天皇の御宇に、退蓮社転誉上人とかゞ創
ら い そ こ
開いた一心山専念寺と称ふ浄土宗の寺があるが、其寺から南方半町余り
の山中に赤松円心の墓を見たが、何処に何う云ふ人が死んだか分らない
ものだよ。』
おつしや せんど
『さう仰在るとまだ妙な墓がありますよ。先度京都へお供しました時に、
花園の妙心寺にも武田信玄の墳墓がありましたが、例の船坂から西之宮
い じうりん い
へ越える途中、右手の方に、昔、吉利支丹婆が居つたと伝ふ鷲林寺と名
ふ、可なり由緒の深い真言寺があります。。附近に十数戸の人家もあつ
い
て鷲林寺村と称つてゐます。斯の村から五丁ばかり離れた竹林中に武田
み ち
信玄の墓があると聞きまして、船坂から伊丹へ越しがけに、恰度途中で
すから見に行つた事がありますが、信玄よりはズツト時代が新しく、私
ど
の見た所では怎うも天保以後の墓だと思はれました。変な戒名で俗名は
愚か年号も何も入つてはありませんが、武士の墓には相違なさゝうです
…………』
無心に語るY君の単純な斯うした話が、僕には非常に強いチヤームであ
さなが や
つて、宛ら、六甲の山霊が此の青年を遣はして、僕を招いてゐるものゝ如
うにも感ぜられるので、
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赤松円心
赤松則村
鎌倉時代から南北
朝時代の武将、播
磨の守護大名
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