Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.7.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その10

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

二五 六甲山靈の使者

管理人註
  

 Y君も不思議と緊張して  『実は先生!斯うなんです。此間一寸した用事で六甲山腹の船坂村へ行       かね                 い           くれ  しゝ  お   きましたら予て知つてゐる虎公と名ふ猟師の話に、「或年の冬、猪を逐    からと                          うて唐櫃六甲の森林を突つ走つてゐると、不図大きな墓が目に触いたの         めじるし     しをり        あく     あらた  で、変に思つて目標の為、枝折を作つて置いて翌る朝、更めて見に行つ                   みつか                つま  たが、何ういふものか、幾ら探しても見附らぬので、狐にでも魅まれた                                  のではないかしら………」と、変な気になつたさうです。それから既う                            きのふ  四五年も経つので、スツカリ忘れてゐたのに、昨日小桜巳之吉と云つて、  永らく船坂に来てゐる山働きですが、その男が、「大塩平八郎の墓を見                えら      い  つけたたしかに見つけた。』と豪さうに叫つてゐるのを聞いて、その猟                  かう/\  師が前言つた墓の事を思ひ出し、「斯々いふ格好の、背が高いかうした                               墓であらう。」と聞きますと、「全くそれに違ひない!」と応ふ。それ  でモウ一度二人連れで、見に行かうと言つてましたが……………』               イリユージヨン    レアツピア  Y君の話を聞いてる間、例の 幻想 は鋭く僕の脳裡に復現した。その幻   あたか      レベレーシヨン 想は宛も神来の 黙示 であるかの如く思はれてゐる矢先き、其処に中斎の 墓を実見したと云ふ二人の証人があると聞かされた僕には、もう寸毫の疑 惑も無かつた。                 あたりまへ  『そら君!仏壇に仏像があるのは当然ぢやないかね。』              い ろ  『しめた!』と思ふ心を顔色にも出さず、おさまり返つて僕が斯う曰ふ と、     そんな   たしか  『おや爾麼に確実なのですか。』  『確実な所か、池田北裏、多田村の満仲院に満仲の墓が在り、箕面在の  萱野村の萱野三平の墓が在るのよりも、阿波の里浦に清少納言の遺跡の  あるのよりも、宇治の猿丸に猿丸太夫の遺跡があるのよりも、大阪下寺  町生玉下の浄国寺に夕霧の墓があり、桜之宮の大長寺に小春治兵衛の墓  があり、中寺町五丁目妙法寺に近松の墓があり、上本町五丁目の誓願寺                     たしか  に中井履軒や井原西鶴の墓があるのよりも確実だよ。』                                 『さうですか。私は大塩の事など、余り知らないものですから、可い加  減に聞いてゐましたが…………イヤ成程、さう承はると、思ひ当ること       わい                        があります哩。御存知かも知れませんが、生瀬から船坂へ登る彼の「大                     かなり  多田川」の上流に、「御前浜」と云つて、相応広い一区域があります。  ちやうど  恰度去年の今頃ですが、私の知つてる男が其処から錆びた刀の折れッ端   こづか                   ふる  や小なんか拾つて来ました。鑑定の結果、それは格別旧い物ではなく、            うづ  七八十年ぐらゐ土中に埋もつてゐたらしいと云ふ事でしたが、或は大塩          あたり  一味の者が其処等辺に隠れてゐたのかも知れませんね。』                 からと       くだ  『僕が若い時、神戸の摩耶山から唐櫃六甲へ廻つて唐櫃村へ降つた時、  あの          おふぎまち      ぎよう         てんよ          ひ  彼村に慥か人皇二十八代正親町天皇の御宇に、退蓮社転誉上人とかゞ創                        そ こ  開いた一心山専念寺と称ふ浄土宗の寺があるが、其寺から南方半町余り  の山中に赤松円心の墓を見たが、何処に何う云ふ人が死んだか分らない  ものだよ。』     おつしや              せんど  『さう仰在るとまだ妙な墓がありますよ。先度京都へお供しました時に、  花園の妙心寺にも武田信玄の墳墓がありましたが、例の船坂から西之宮                            い  じうりん    い  へ越える途中、右手の方に、昔、吉利支丹婆が居つたと伝ふ鷲林寺と名  ふ、可なり由緒の深い真言寺があります。。附近に十数戸の人家もあつ          て鷲林寺村と称つてゐます。斯の村から五丁ばかり離れた竹林中に武田                                み ち  信玄の墓があると聞きまして、船坂から伊丹へ越しがけに、恰度途中で  すから見に行つた事がありますが、信玄よりはズツト時代が新しく、私          の見た所では怎うも天保以後の墓だと思はれました。変な戒名で俗名は  愚か年号も何も入つてはありませんが、武士の墓には相違なさゝうです  …………』  無心に語るY君の単純な斯うした話が、僕には非常に強いチヤームであ    さなが                              つて、宛ら、六甲の山霊が此の青年を遣はして、僕を招いてゐるものゝ如 うにも感ぜられるので、

赤松円心
赤松則村
鎌倉時代から南北
朝時代の武将、播
磨の守護大名






























 


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