あ れ こ れ おも い つ
彼事を思ひ此人を懐うて寝られなかつた僕も、昼間の疲労で何時しか寝
て了つたが、忽ち恐ろしい音がした。『救けて呉れ!/\』と、物凄いと
ふる
も哀れとも云はふ様無き大悲鳴、大叫喚が怒潮の如うに轟き亘つた。慄へ
へ た ば た
上つた僕は忽ち其処に平太張つた。起たんとすれど、足が大地のドン底か
よ び く で
ら生へてゞもゐるかの如うに、微動とも能きない。これはと驚く途端、更
わめ やみ
に驚いたのは幾億万の亡者が全地に充ち満ちて喚き叫んでゐるのが暗の中
はつきり
に明瞭見える。僕自身も其の一人であつた。すると突如、爛々たる光の玉
そ れ
が輝いた。其光は大きな鬼の目玉であつた。而も其の大鬼は無数の亡者を
片ツ端から首刎ねて、瞬く間に一人残らず首ばかりになつて転がり廻つて
うち な
ゐる中にヒマラヤ大の一つの首と化つた。すると大鬼は「ヤ!」と叫んで
かしら
身を伸すと頭天に沖つる程の大身と化つて、其の大きな首をも切つた。す
ると忽ち切口から火焔を噴出して大地は忽ち火の海と化し、火の中から金
龍が踊り出で、天に昇つたかと思ふと、天地を焦す猛火は消え失せて、も
な さ たけなは
との真ツ暗闇に帰つて了つた。と思ふと夢は覚めた。夜はまさに三更であ
も おもて ひさめ
るが、僕は既う寝て居られないので戸外へ出た。シヨボ/\凍雨が降つて
せ ゐ まばゆ
ゐる所為か、電彩目眩き師走の街に一人の通行者も見当らない。然し何時
づねん いや や
も昼間の混乱に濁された頭燃の医される、大地か湧出したかの如うな此の
ふやじよう ふえつ
不夜城が、猛獣毒蛇の充ち満てる昼猶暗き斧鉞入らざる大森林を、行くに
ま なにゆゑ こ こ
も勝して物凄く感ぜられるのは何故であらうか、戸々悉く人に充ち満ちて
こんな
ゐるのであらうに、何故斯様に物凄いのであらうか。などゝ我と我が心を
ど こ ど と
疑ひながら、何街を何う歩いたとも覚えずに、僕は只ある停車場へ遣つて
あたり
来た。寂しい停車場で駅夫の姿も四辺に見えず、僅か二三の電灯が将に消
またゝ そ れ くろ
えんとして瞬きをし初めた、やがて其灯が消えたかと思ふと、忽ち黒団々
まつくらやみ おほき
の真闇闇から、真黒い巨大な動物がノソリ/\と現はれて、黙つて僕の前
シ ベ リ ヤ た
を通つて行く。僕は西比利亜の果てにでも佇つてゐるかに思はれて、足が
ジリ/\地中に摺り込んで行くかの如うな感がした。
ひさめ や ひき こがらし
凍雨が歇んだと思ふと天魔が胡弓を弾出した如うに、俄然凩が泣き亘つ
うしろ ほ
た。すると背後から狼でも吼ゆるかの如うな物凄い声がする。破れた雲の
とがま
間から鋭鎌の如うな寒月が下界を覗いた刹那であつた。
そ れ ふ ゑ
併し、其声は新聞電車の号笛だある。古呆けた旧式の電車であるが、夜
さなが
陰の鬼気に襲はれて貨物列車をマンモスかの如うに感じてゐた僕には、宛
そ れ
ら地獄のドン底に、蓮座が湧出したかに思はれて、我知らず其車に飛び乗
ゆき
つた。堺行だと車掌は曰ふ。僕は萩の茶屋駅にゐたのであつた。
そ こ
『待てよ!何故僕は其駅に行つたのであらう?。他でも無い、便り無き
Y君があてにならぬとすれば、天下茶屋にゐる山口と云ふ青年が、僕に
いつ
かぶれてか、大塩狂になつてゐる。そして頗る山嶽通と来てゐるから寧
そ此の男を伴れて六甲山へ出向けやうかしら………………とも思つてゐ
そんな
たからだらう。。勿論、家を出る時から別に其麼ことは思つてゐなかつ
いや
たが、矢張り心の底に思つてゐたのであらう。否、無意識に意識してゐ
さうゐ
たに相違ない。』
斯うした自問自答は、僕を促して天下茶屋に山口宅を叩かしめたが、生
憎帰郷中で留守であつた。
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