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僕が大塩中斎に対する敬慕渇仰の熱情は、彼れの出生と出身と、行蹟と
さ ぐ つく
哲学と心事とを探索らんが為に、殆ど半生の心血と私財を竭さしめて猶足
よこた くちづ
らず、いかでか彼れの死所を確め、真に其の聖骸の横るの地に接吻けて、
ちう/\ いや
聊か人生社会に対する憂心の々を、医さんと志ざしむるに至つたのであ
る。
じつ た ふ
一日、閑斎に静坐し、香をき華を献げ、経を諷して彼れの霊に奠じ、
しばらく たちまち イリユージヨン
瞑想黙念すること少時、忽焉にして一場の 幻象 が眼前に展開したるこそ
べうばう くわう/\
不思議なれ。只見る渺茫として際涯無き一大洋、煌々たる天日に照らされ
さんらん たうしよ
て、海波燦爛、目を眩ぜしむるばかりなるよと思ふ間に、小さき嶋嶼の如
うか
きものが、辛うじて視線の及ぶ地平線上に泛び出た。其の嶋影が見る/\
ちかづ
近接ちて、眼前に明瞭たるを諦視すれば、正に是れ一箇の丘嶽、曾て何処
さき ふもと
かで見たことのあるらしいそれで、曩の海は既に全く消え失せて、麓には
ざつき
一面の人家がある。麓から中腹にかけて大小の樹木雑卉が茂つてゐる。其
かん けだもの あ ち こ ち さ ま
の間には、獣に似て尾のある人々の、三々五々彼方此方に彷徨うてゐるの
や やま とつこつ
が、蟻の如うに小さく見える。然し嶽の頂に近きところ、突兀として禿げ、
はんと そゞ
容易に攀登し難く見ゆると共に、何とも云へぬ威容が坐ろに僕の心を圧し
た。『あゝ霊山よ!』と、覚えず讃嘆を禁じ得なかつた。僕の眼の見ると
さなが れいろう
ころ、嶽は宛ら水晶の如く透徹玲瓏として、内部の蔵蓄がアリ/\と見え
るのであつた。初めの程はたゞ黒闇の煙状のもの、ムクムクと動揺いでゐ
は り しゞこ しやく
るのみであつたが、間も無く其の輪廓には、金銀、瑠璃、玻璃、、赤
じゆ めなう あらゆるほうじやく
球、瑪瑙と云つた、諸有宝石の輝きのあることが見出された。煙状のもの
ゆらめ
は中心から湧き出すやうに絶えず動揺いて、其の度に輪廓の線は随つて伸
ちちやう りくり
縮弛張してゐるが、いよいよ出でゝ、いよ/\美しき宝石の光彩は、陸離
ちかづ てうみつてきこくあん
として目を射るのである。其処で僕は中心に近接く程、稠密的黒暗と見ゆ
る其の煙状のものが、実は全体に光明であつて、其の光明が僕の眼に認め
るには、余りに強烈な為に、却つて黒暗に見えるのであることを覚つた。
まばゆ く
僕は目眩きばかりな輪廓の美には目も与れず、一生懸命に其の煙状の中心、
こくあん/\ ところ
光彩を湧き出す本源たる黒闇々の箇所を凝視してゐると、果せるかな、其
処に人の子の如き形像がある。曾て全身を仏に供養して猛火に焼きし薬王
菩薩の如く、又死より甦つた者に似てゐる。多分仏教信者には黒仏と拝ま
れ、クリスチヤンには復活の主と仰がるゝものらしいその人の姿が、僕の
まさ またゝ
目には正しく霊化せる大塩中斎と映じたのである。僕は驚喜しつゝ瞬きも
ぎよがん じやう
せず、その懐しき御顔を仰いでゐると、その姿は次第に拡大されて丈六の
たいしん な だい やま
大身と化り、奈良の大仏大となり、いよ/\膨張して遂に嶽一抔に拡がつ
おも つゝ
たかと惟ふと、嶽は忽ち元の凝性に復して、再び内部の荘厳を裏み、而も
ぎ ゞ
依然として巍々たる其の威容を名残に、漸く其の影を薄め朦朧として遂に
消え去つたのである。
イリユージヨン かへ
僕が夢から覚めたるものゝ如く、此の 幻像 から我に復つたが、その印
象が余りに明晰であつて、而も意味あり気なので、即座の直感は、六甲山
せきじ
中に中斎の墓があると云ふ其の霊告であると判断したのである。昔時、西
じうん
行上人を慕ふこと、孤児の慈親に於けるが如くであつた似雲法師は、西行
やつ
のそれと同じ姿に身を扮し、東西に行脚してその終焉の地を探し廻つたが、
くにひろ
一日石山寺に参籠して、一心に祈願を籠めし其の夜、夢に河内の国弘川寺
い ふる
辺の光景を見、覚めて直ちに馳せ行き、見事上人の墓を発見したと伝ふ故
ごと まこと ひら
事もある。一心の誠は宇宙人生の如何なる幽微をも闡き、専念の祈願は能
もた たぐゐまれ
く神明の感応を齎らす。斯うした事例は古今に類稀ならぬところである。
兎に角斯うした幻像を見たことが、僕をして六甲山に中斎の墓を探らしむ
るに至つた直接の動機である。されば斯の神霊的感応の事理を解せざる不
おこなひ ノンセンス
信の輩は、僕の此の 行 を以て狂人的愚挙と嘲るであらうが、先賢を追慕
かつかう や
渇仰して日夜に忘るゝ能はざる僕としては、実に已むに已まれぬものがあ
つたのである。
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陸離
光が入り乱れて
美しくかがやく
さま
似雲
1673-1753
江戸時代中期
の浄土真宗の
僧・歌人
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