な
『ナーニ芽が幹と長るのが生きんが為、花が咲き実を結ぶのが伸びんが
為なら、花が散り実が落ち葉の枯れるのも、幹が枯れ根が朽ちるのも、
くら
生きんが為、伸びんが為だ。「生れ生れ生れ生れて生の始めに冥し」な
や
どゝ弘法はいつてゐるが、生れて已まず生れて已まぬ生の始めのあらう
道理もない。』
ち ゝ こゝろ
『ヘエ………成程、亡父が生前書きました此の文言の意が偲ばれてまい
りまして御座います。』
なげし ゼ シ
と云ひつゝ文教さんの指す間には、「心本不生、法本無法」と題さ
ふる かゝ
れた旧くもあらぬ扁額が掲つてゐる。
う ま もの
『こりや実に巧妙い書だね。』
つまら も の
『イヤ誠に拙劣ぬ筆蹟で………併し父は斯う申すと何で御座いますが信
うはべ おとな あいそ
仰の何のといつて表面は温順しい人でしたが、子たる私の目にさへ愛想
いひわけ もとで
の尽きた陰険人物で御座いました。何しろ弁疏や懺悔を資本に商売をし
てゐましたからね。それに死にがけまで自分のした反対のことをいひま
して御座います。父が死にました当時、京都に流浪してゐました。私は、
突然父から「直ぐ帰れ」との電命に接しました時、何の用だか分りませ
さわ
んでしたが、恐ろしく胸皷ぎがしましたので、取る物も取敢へず飛んで
帰つて見ますると、意外にも頻死の状態に陥つて居りました父は、私の
よ
顔を見ると、やをら床上に坐りまして、「俺のいふことを諦くきいて腹
い つ う ち
にとめて、決して書き止めるなよ。何時も自宅を出る時には帰つて来ら
つもり
れぬ心算で出よ。誰に会つてもこれが会ひおさめと心得よ。又、今日の
おの おの
己れは明日の己れでは無い。財物書物其他何物でも、己が手許に在つて
は己れの役にはたゝぬものと承知せよ。智慧、才覚、文章、言語其他の
あと いね
無形物は猶更以てさうである。妻を娶れば猛虎と後差しで寝ると覚悟を
し、親しき友ほど強敵と心得よ。真の味方は敵の中に在る。向つて罵る
ほ
者の声は、自分に一命を献げたいとの祈祷であるが、向つて讃むるもの
テヽ ヲ ル
には肌身許してはならぬ。棄恩入無為親を仇敵と心得て断じてあとを
すぐせ
弔ふな。又宿世の仇敵なればこそ、親子として現はれ出たのである。俺
たゝ うち
が死んだことを親戚縁者へも知らせてはならぬ。四十九日経ぬ間は誰が
き あ ち ら ゆ とほざ
尋いても死んだとは云ふな。」などゝ遺言して、彼方等へ去けと私を遠
そ こ
けました。直ぐと眠りに就いたやうでしたが、再び其室へ行つて見ると、
床は藻抜けの殻で、父は何処へ行つたか分らぬ了ひで御座います。父は
し と
巧く芝居を仕貫ふしたつもりでせうが、私はそれがいぢらしいので御座
います。』
い しばた
斯う語つて文教さんは眼を瞬いた。
こ と
『要するに無常を観じて忘れるなとの遺言なのだ。生活をなるだけ単純
ゆゐごん なま
にしてつまらぬことに光陰を費してはならぬとの遺言だよ。懶けてゐて
た
も日は暮れるし、悪事をやつても、善事をやつても時間は同じく経つて
了ふ。過ぎ行く光陰をあだに過すなとの訓戒だよ。』
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