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ど
『イヤ何うも有難う御座います。』
し や ほ ん
と云ひながら文教さんは、更に傍の書棚から大部の殺青書を引摺出して
うや/\ と
恭しく僕の前に献げた。僕は其中の一冊を手に把つて何心無くパツと拡げ
ると、
スルハ ノ ニ チ ナリ
報父母恩 乃世尊之勝躅 云々
きしんじやうどう つ
著者道元禅師の忌辰上堂の語が目に触いた。
こ れ しんぷ
『あゝ此書も御親父の筆ですね。』
僕は此の道元の語から不図、
シテ ヲ シ ヲ テ ラ ル セ ノ ニ
変気質而志聖人 以不可不報 父母深恩
云々の中斎先生の誓願が偲ばれて来た。僕は先程、芸術は満たされざる
もたら
恋の齎す産物であるといつた。然し亡き親を憶ふ心の結晶が信仰ではなか
ほ ほ いだ
らうか。一は抱き占めんとする愛情の火の火であり、他は抱かれんとする
ひらめ
まごゝろの閃きではあるが、共に人間真実の発露ではなからうか。
キ ニ ニ ル ニ シ ヲ シ ヲ チ テ キニ ノ
聴於無声、親於無形、子之事親、致情尽心乃至如此、
チ シ ニ
則庶乎孝矣、
ど れ こ れ
と述べせれた中斎先生は、孝経を愛誦して、何書よりも先に此書を門下
に授けられたが、
くだ
天よりも下らず、地よりも生ぜず、母より生ず
おも
と叫んで終生父母を憶ひに念うてやまなんだ涙の詩人日蓮が、彼れ自ら
内典の孝経だと云つた法華の行者になつたのも当然なことである。母を伴
げんせい
うて泉州和気に詣で、日蓮の像を拝し出家の念を起した深草の元政上人の
三願中の一願は、
つく
父母が長寿で孝行を竭したい
と云ふのであつた。大愚良寛の出家はもとより父の横死を悲しむの余り
おも
であり、親鸞や道元の出家とても、中斎先生と等しく亡き母を憶ひに懐う
どんらん
た結果であることは云ふまても無い。曇鸞が忠孝を以て信仰を解釈したの
は当然なことである。骨肉を殺した頼朝の子は骨肉に殺されたが、矢張り
かたき まも
源氏の裔である父時国が、仇を討つなとの遺言を厳守つた法然の専唱念仏
とても、もとこれ人を殺す心を殺す、謂はゞ徹底的に父の仇を報ずる為で
あつた。耶蘇の伝道とても見ぬ父に憧れた余りであつて、而も十字架上に
と き
死なんとする刹那、猶、母をヨハネに托したではないか。難産の為に、右
や
脇腹を断ち割らねばならぬやうな大手術によつて、漸つと生れた仏母摩耶
ぬ
が、一七日苦しみ貫いて世を去つたことが、釈迦が出家の原因では無かつ
たうりてん
たか。彼は「母ありて我あり」と叫び、入滅の刹那に、利天に生れて出
い ねんご
たと伝ふ母の為にのみ、特に棺より出でゝ懇ろに説法したではないか。さ
れば「如来の戒法も孝養を離れず」と古人も曰つてゐる。八万四千の法門
悉く孝道の宣説と見ることが能きるし、孝心即信仰であるとも云ひ得られ
あひて
る。否、孝心以外に信仰は無い。僕は高僧の伝記を読む毎に、対者と父母
あ れ こ れ ぶつ
との心情を思うて泣かされる。彼僧や此人やに想到すれば、仏、菩薩なる
ものは亡き親を懐ひに憶ふ心に生れるのではあるまいか。而も仏、菩薩と
かたまり
は親心の凝塊であらねばならぬ。人、父を忘れた時、神に見放されてゐる。
母を忘れた時、仏を喪つてゐる。然し、神を喪ひ、仏を喪つた寂しさに、
あこが すが
異性に憧憬れ、物に縋る。夫を迎へ妻を娶るのも親無き寂しさからである。
斯くしてます/\親と離れて行くのではないか。即ち絶対の愛を信ずる心
は喪はれて、ます/\寂しさが加はつて行くのではないか。而もその寂し
さの果てに蘇つた父こそ神であり、母こそ本当の仏であらう。
ふ ざ け
今の先まで他愛も無いことを云つて、巫山戯てゐた僕は、何故か斯うし
た思ひに沈んで行つて、云ひ知れない寂しさに襲はれて来た。
おつしや
『先生は昔からの人は皆まだ生きてゐると仰在いましたが、私共は昔の
か と
本など読んで感心したり、共鳴したり致しました場合、著かれた人が疾く
いらつ
に亡くなられて、今は何処らも被在しやらないと思ひますと、何となく涙
ぐましくなるので御座います』
みまも
僕の顔を熟視つて文教さん、斯く語り来つて何故か急に悄然とした。
ど あきら
『何うも文教さんは、亡き親の心の痛ましさを憶ひに懐うて、断念めら
れぬのに違ひ無い………』
お も したゝ
と痛感はれて強か同情されたので、
さ きつと
『しかし爾うした時には、鏡をのぞいて見られると宜しい。必度其の対
うち
者は、鏡の裡にお出でなさるから…………』
おくつき なきちゝ こゝろ
斯ういつて僕は、忘れられぬ心の墳塋こそ、亡父の住家であるとの意を
つもり
諷した了見であつたのだが、何故か文教さんは、
『え?鏡…………』
さしうつ
と云ひさした儘、差俯向いて何とも何とも言はぬ。
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『洗心洞箚記』 (本文)
その69
元政上人
1623-68
瑞光寺の開祖
曇鸞
中国北魏の僧、
浄土五祖の初祖
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