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そんな
『文坊………、其麼に考へなくたつて、君が鏡を見たら、男の目には美
ほとけ じげん
人に見え、女の目には美男と見える、先生の所謂仏の慈眼、イヤ生き仏
が現はれるさ。はゝゝゝ。』
よ なぶ
『Yさん!可い加減に嬲つてお置きなさいよ。』
な か か ほこり
『だつて天女を抱けば猿と化り、霞耶雲耶の桜だつて、手に取ると塵埃
しやくどう
ぢやないか。三十二相八十種好の仏だなんて、根が赤銅色の縮れつ毛、
あしもと
死んで了つたから可いが、若しも今に生きて居たら、到底君の脚下へも
よりつ きりやう
寄付ける縹致ぢやありやしないさ。ねえ先生!』
ふため
『そら二目と見られぬ醜婦であつた小野小町が、絶世の美女かに思はれ、
きやら じやかう わきが あな
伽羅でも麝香でもまかしきれぬ腋臭に悩んでゐた楊貴妃が、一毛孔の香、
おも
百花に勝つてゐたかに想へるのも時代といふ霞を隔てゝゐるからだよ。
めのまへ こんな きりやう
眼前に見てすら斯様に美しい文教さんの縹致は、勿論宿善の果報でもあ
しんくわい りき
らうけれど、実は如何なる神怪鬼物をも降伏せしむる金剛力を、内部に
秘めてゐると云ふ弁財天の変性なのだぜ。』
まつたく
『真実です。女にしてあらま欲しい程の文教さんが、弁天寺の住職にな
るなんて何だか因縁が有りさうてすね。それに文坊、ぢや無い文教さん
ふうきん う ま まるで かりやうびんか のり や
の諷経と来たら実に巧妙いもので、宛然、伽陵頻迦が法を歌つてゐる如
うですよ。』
『そりや一つ聞かせて貰ひたいものだね。』
や
『君!久しか振りに誦つて呉れ給へ。』
『…………………………………』
じやう
『たゞ願くは弁財天、妙音声を以て我等を以て我等に施し給へ……………』
Y君は低頭し合掌せんばかりに頼んでゐるが、何故か文教さんき一向に
けしき
応じる気色が無い。
け の ど
『実は風邪気で咽喉を痛めてゐますので……………』
男弁天の御機嫌、聊か不の字と見て取つたY君、
そんな や
『君!其麼事は云はずと、是非誦つて呉れ給へ、実は僕等はこれから六
甲に大塩中斎の墓を探しに行くのだ。生きて還れるか、死んで帰れぬこ
とになるか知れたものぢやない。若し死んで帰れぬものとして見ればだ
ねえ君!今此処で君の読経を聞いて置けば、また成仏の縁にならうと云
ふものではないか。僕等が二箇の屍であつたら、君も職掌柄引導を渡し
まさか
て呉れるだらう。真逆声が悪いからと云つては断はるまい。所が君!僕
しかばね こな
等は実際、生きた屍のやうなものなのだよ。元旦早々、決死の覚悟で此
いだ あ
間からの雪で、真白い彼の山中へ探検に出掛けるんだ。況んやまた君の
美声たるをや…………』
い つ たう/\ いぶか
何時にないY君の能弁が滔々として何処まで続くことかと、訝る間も無
く僧は折れた。
あ
『イヤそれほど御所望でしたら、一つ諷げさせて頂きませう。定めしお
づら
聞き辛かつうとは思ひますが…………』
しとやか ゐずまゐ さ ゆ
文教さんは淑然に居住居を正して、手づから酌んだ湯呑の白湯をソロリ
ころも しはぶ や
ツと啜り、法衣の袖で口を掩うてオホンと軽く咳嗽きした。さあ何を誦る
のであらう?
ど
何うせ曹洞の事だから普勧坐禅儀か、修証義か、但しは信心銘か大悲呪
あ
か心経か、それも僕等の為に、消災陀羅尼でも誦げて呉れるのか、或は寺
号に因んで、
のうまくさ まんだ ぼ だ
嚢莫薩曼多没駄…………
め こ み つ けゞん
とでも来るかと、女子が碁磐を注視めてゐる訳でも無いのだが、怪訝な
みは じゆ ぢーつ
目をつて僕が、今し経を誦せんとする文教さんの顔を凝乎と見詰めてゐ
ど つ どうばん よそ
ると、文教さんは何う思つたか、衝と起つて紫紅縮緬の幢幡に粧はれた仏
まばゆ
殿から、目眩きばかりの朱塗りの金ピカ木魚を提げて来た。
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諷経
経文を声を出して
読むこと
伽陵頻迦
迦陵頻伽
迦陵頻迦
上半身が人で、下
半身が鳥の仏教に
おける想像上の生
物
消災陀羅尼
災妙吉祥陀羅尼
幢幡
仏具の一種
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