『いよ/\本調子になつて来たぞ!』
おもむ
Y君は覚えず叫んだ。やがて、ボーク/\/\と徐ろに打鳴らされる木
ひゞき い こ
魚の幽韻がビン/\と火鉢に生凝る桜炭の薫りに調和して一種懐かしい。
ようん
併し木魚の音は文教さんの内なる人を物語つた余蘊が無い。五郎正宗は刀
し かね
を打つ一音に作者の利鈍を覚つたといふことだし、徳本上人は鉦の一音に
ぶつ な いふ
剣客を覚らせた。仏の一切説が一音に籠り、神の一言が天地と化つたと云
のに無理があらうか。僕は文教さんの木魚の音に天才の摧折を思はぬ訳に
しづか
は行かなかつた。それにしても閑寂なムードを漂はせる、悲し気な冬の山
くつろ くろず
里の、身に迫る底冷たさも聊か寛和いで来るかの如う、何となく澄んだ
な ゆる かんじやく
室内が漸次黄色つぽく変つて来るかにも思はれ、悠やかな昼間の閑寂が破
られながら、更に一層悠やかな閑寂を覚えるのも妙である。忘れてゐた元
のどけ
旦の長閑さが叩き出されて来たのも嬉しい。一座は黙々、四隣亦寂黙たり
で、通天響地、たゞ木魚の音ばかりとなつた。
かはず
『芭蕉は蛙の飛び込む音に悟り、香厳禅師は爆竹の音に覚つたと云ふこ
とだし、ニユートンは地上に落ちた林檎の音に地球の引力を覚つたさう
ゆふべ あした
であるが、音韻は我等の福音だね。夕に死んだ我等が朝に蘇るのも脱け
て出た魂が耳から入るからである。「宗教はリズムである。」とは単に
聖楽家の言として聞くべきで無い。風に鳴る瓢箪をかしがましと打棄て
きよいう ひゞき
たところに、許由の情想の汲取れる如く、人心の散乱を沈める鈴の哀韻
には、彼の深沈な親鸞の悲情が偲ばれる。凝り固つた法然の念仏三昧境
ひとゝなり
は、木魚よりも真鍮の捨鐘に響き、弘法の 為人 は、楽器よりも護摩の
ほ ほ ひらめ
火の火に閃き易いかも知れないが、寂味の豊かな懐しい彼の道元を偲ぶ
には、斯うした木魚のリズムで無くちやならないね。若しも彼の殷々た
ひゞき くんじん わ が おんしや
る鐘の幽韻が美妙深遠なる浄土の燻塵なりとするならば、和雅温藉なる
ほとけ
仏の音声だからねえ』
冷評半分に皮肉るともなく皮肉つた、斯うした僕の諷言に、文教さんは
乗地になつて、つとめて木魚を叩き出したが、容易に口を開かうとはしな
ど こ さはり
い。Y君はモドかしくなつたのか、何室からか大きな置鐘を引摺り出して
来るなり一ツ、ボーンと響かせた。スルとそれをキツカケに、
爾時無尽意菩薩、即従起偏袒右肩………………
や ふさは
と文教さんは誦り出したが、木魚よりもヴアイオリンに調和しさうな文
こは も の
教さんの肉声は、折角の寂味を打毀すに余りある淫音であつた。官能をイ
ヤに刺戟する外、何等内耳に滲み徹る幽韻が無い。併し、淫欲鼓吹には住
はだし しろもの なご
蓮、安楽も洗足で逃げさうな肉声である。学芸を以て人心を和めんと企て
しりぞ まゐら とほざ
た孔子が鄭声を斥け、音声の美しさで五比丘を敬服せた威音王が伎楽を遠
もつとも や
けたのも道理であると思ひ、「有難く無い説教や頭の下らぬ読経を行る僧
なぐり い
侶や牧師は殴殺せ」と或人の叫つたのも道理だなどゝ思へて来た。
あ だ みめう さなが
『成程、婀娜つぽいふくらみのある美妙音、宛ら新内のさはりの如しだ
げぢき
ね。何だか魂が天外に堕ち、五体が地中に舞ひ上るよ「価値百千両金」
の朱房の垂下つた蒔絵の見台でも供養し奉らうかね。はゝゝゝ』
こんなこと い た
斯様言を放ひながら僕は早速便所へ起つた。すると驚くまいことか薄ら
どつぼ まる
暗い糞壺内には大円金が転がり落ちてゐる。然しそれは小さな円窓から射
おひかり てんどがき
してゐる円光であつた。「即便微笑有五色光」の壁書も面白い。窓の外に
ばくらう えん/\
は川あり森あり麦隴ありで、高くもあらぬ山脉は蜿蜒として宛ら一大貨物
ホ ル ヰ ズ ン
列車の如く地平線上を走つてゐるが、余りにスピードが酷い為に、却つて
動かぬ如うに見えるかに観られた。東方碧瑠璃の停車場から、西方浄土の
こんな
弥陀駅へ向つて行くのであらう?。斯麼余計なことを考へながら便所を出
て縁端の手水鉢で手を洗つてゐると、フト庭の片隅の破れた垣根に名も知
こゝろもち
れない花がたゞ一輪、幽微風に揺いでゐるのに、惹付けられるとも無く惹
ふ ら
付けられたのか、僕は我知らず浮羅々々と降りて行つた。
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