まる
文教さんは眼を円うして僕の顔を見詰めた。
あなたとこ き
『イヤ其事も貴僧宅の過去帳にお質きなさるが可いでせう。中斎先生が
どうまんなか
大坂の銅真中、而も信濃橋下番所近くに潜んでゐられたのが本当であつ
たとすれば、伴天連が其の真正面の敵だつた仏教の伽籃堂に、隠れてゐ
はだし
たつて怪しむに足らないよ。それに阿難尊者や善財童子も跣足で逃げ出
も すてみ
しさうな美貌を有つた君の先祖の中には、無数の人間に舎身の恋を献げ
させる程の、恐ろしいチヤームを有つた白蛇、イヤ舶来美人もあらせら
れたでせうから…………』
あたり わざ
と云ひながら僕は四辺を見廻すと、昔ながらの床柱に、態とらしい大き
つ よく ゼウス
な埋木が施されてあるのが目に触いた。しかし熟視て見たが、マサカ天帝
像を祭つてゐた跡とも思はれない。
『伝ふるところによると、伴天連法度の当時は柱は愚か、樹の幹を繰り
そ ま つ
抜いたりして密つと天帝を潜祀つてゐたのである。大木の幹を両断して、
うつろ うが
合せば人間一人を辛くも圧込み得るだけの空胴を穿ち、無数の長釘を打
やまあらし いかりげ くうどう
込んで内部に豪猪の怒毛の如うに蔟出せしめ、其の空胴へ締込まれたと
さ
云ふ伴天連は爾うした連中では無かつたか。俵につくらて積込まれた伴
ひきしお あた
天連は、俵の中に、退潮時には腰の辺りまで、高潮時には海水が口鼻に
い そ れ ど ば
及ぶ海岸の十字架に釘づけられたと伝ふ伴天連は、海岸の土坡なと掘り
窪めて天帝を祀つてゐたらしい。』
こんな つま かおつき
斯麼ことを思ひながら、文教さんはと見ると、狐に魅まれた如うな顔相
み つ
をして天帝像と観音図を注視めてゐる。
がふ
『しかし文教さん!釈迦より四十二劫以前に華林園の龍花樹下で善恩仏
に教へを受け、釈迦の法嗣、当来の導師に任ぜられたといふ弥勒は、実
た
は最後の審判官として再臨する基督なのだ。再臨までには僅つた五十六
億七千万年しか時刻が無いので余り遠方、では無い遠天へも行かず、手
とそつ
近い欲界六天の四重天――釈迦が上天時代に居つたと云ふ兜卒天――に
ゑ
説法しつゝ、龍華三会の暁を待つてゐるそうだから、日本伴天連の末裔
ふさは
たる君には最も調和しい本尊だよ。殊に弥勒浄土は男女同棲ではあるし、
ないげ
内外四十九院、ぢやない、四十九部屋に千男万女が押合ふさうだからね。
メシヤ ぐ ぜ けふじ
併し、観音は救主、否、救世菩薩といつて弥陀の右に座する脇侍、否、
ちから いや
大権の右に座する基督の変化であつて、衆生の煩悩を医す為に娑婆へ御
出現下さつた、男女両性の肉身の菩薩であつて、五十三身は愚か、蝶と
な な
も現り花とも化つて舞ひ下さるから、大悲の法門を頂戴に詣づる男女も
も と
多い事だらう。尚更大切にして置き、イヤ仕給へ。ナンセ身体が資本だ
からなあ。』
こんな
恁麼ことを言ひながら僕は、Y君を促して寺を出たが、何故か云ひ知れ
ない心の底に傷みを覚えた。文教さんは山門まで送つて来て、
どうか うち
『何卒またお近い間に…………』
につこり
嫣然会釈するのを見て文教さんの為に泣かざるを得なかつた、それに僕
いれちが えもの
等と入交ひに、頭巾真深に猟服を着た者が、獲鳥を引提げ鉄砲を担ぎなが
ら迯ぐるが如く山門を潜つて行つたのには驚いた。
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