Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.8.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その32

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

四九 全人類の犠牲

管理人註
  

                      きやうしゆう  『成程、一切が陰陽であり陰陽が一切ですね。経宗に対する念仏宗の如  うに、臨済の男性的なのに反し、曹洞が女性的なのも矢張り陰陽ですね。     きほう  たふと         つと   ほうばう  前者の機を尚ぶのとは反比例に、力めて鋩を露はさず、穏健綿密を               もんじ  旨とする曹洞は、等しく不立文字と云はねばならぬ程の、立文字ではあ  りますが、黙照禅といはねばならぬ程の弁照禅だけありまして、宗祖中、               し け  道元ほど書巻の気に充ちた師家も無ければ、著述の多い開祖も無さゝう  ですね。』  『然し、其処が道元の尊いところ、親切なところで亦、曹洞の曹洞たる                もんじ          なんげ  ところだよ。考へても見給へ、文字で伝へられない程の難解の禅を伝へ                         あたりまへ  んとするには、多きが上に多くの文字を要するのは当然ぢやないか。法                       わざ/\        どうぎやう  聞の要を聞かんが為に、十余ケ国の境を越えて態々遣つて来た同行を  「たゞ念仏して弥陀に助けられ参らすべしと、善き人の仰せをかふむり                         いぎやうだうじん  て信ずるほかに別の仔細なきなり」と、キメつけた易行道人、親鸞です                 かきもの  ら難行道師、道元にも劣らぬほど著述が多いからなあ。』                                 ぬけ  『然し爾うした著述によつて禅を悟り念仏に入らうとするには、蝉の脱  がら  殻からガト虫を獲やうとする以上の愚ではありますまいか。』                       せんめい  『そら作品は芸術家の脱ぎ棄てた衣服であり、闡明された真理は哲学者  の足跡に過ぎないし、善財童子が五十三知識を歴訪したと云ふ事が何で                             か れ  もない。只斯くせなければならなかつた其の精神の衝動を、童子により  て覚るところに価値があるのは言ふまでも無い。文字に現れた公案を解  かうとしたり、弥陀の本願を知らうとするのは、蛇の脱ぎ捨てた衣から                      うそぶ  蝮を獲やうとするにも劣り、頭の上の厳角に嘯きつゝある虎を、足下の       もと                  ぶつ  足跡に探し索めるよりも悲惨な努力である。けれども仏の出にければな                        お こ          あ ら  らなかつた原由、禅の飛び出した動機、念仏が発生り、公案の現代はれ           あきら        まさ  た其の精神的衝動を諦めてこそ、当に来る可き前途を照らす水準ともな     まつしぐら              あき       まさ         すく  れば、驀直に進まねばならぬ向上の一路も諦らかに、正しく自己の済は  れてゐることも分るのだよ。勿論其処には何の文句も無い。一代説法も  公案も何も無い。教行信証や正法眼蔵は云ふまでもなからう。しかし文              つ   つ     そ れ  字に離れる極意は文字に即き即いて文字と心中するにあるのだ。諸善万      行を行つて/\行り倒してこそ、少善福徳の因縁では浄土に生れること    で      こ と  の能きない因縁も分り、言説文字に即いて/\即き貫してこそ、不立文                           かくてき    たゞすが  字の境界も覚れるのだよ。文字言説を捨閉し、諸善万行を擱抛して祇菅  念仏三昧に入た法然とても、一切経を五度読破して初めて各人それ/゛\  の一切経の在ることも読書の用は読書の用無きを知るにあることをも知                  つて、一文不知の尼入道の心と化り得られたのではないか。善導の所謂  ぶつ               くわきやうしよ  仏の大悲心を学び得たのも、善導の観経疏が「一々文々是真仏」と映ず         めがね                    やつ  るまでに、涙で心眼を研ぎ澄ましたからではないか。難行苦学に窶れ果      ひじ       ずゐ                  てたが、臂を断つて膸を得、求道心に燃えに燃ゆる熱情の火の火が仙境     を焚いて正法に帰せしめたのだからね。』  『然し、今日一切経といへば、一万巻もあるでせうが、法然の読んだ報                恩蔵の一切経と云ふものは僅つた二千六百巻しか無かつたさうですね。』  『しかし万巻の書を読んで一巻の書を読まない近頃の読書狂では仕方が        ないよ。況して万巻の書を見て一巻の書を読まざる者をやだね。尤も今                  の書物は買ひさへすれば分る。售る目的以外に、著者に目的が無いから、  かつ                    ひと  買たゞけで読めてゐる。独創にあらずして読装だ。それに他の為にして                                   己れの為にしない近来の仏教徒は仏典に関する他人の註釈書を読んで既       わ か  うそれで了解つたつもりになつて了つて、本当に解つて居ない。古人が  一代を費して漸く覚つたことを、たゞ其の言葉だけ聞いて、直ぐぐその  古人を凌駕した気持になつて了ふ。肝心の仏典を読まず、聖書の批判を  読んで聖書を読まない基督教徒が多いぢやないか実際さうした人間を見  ると、何だか悲惨な感じがするね。飯を食つた話を聞いて飯を食つた振         ひとしほひい  りする人の顔は一入飢たる相に見えるからなあ。』                            『座禅から尻の腐るまで行り、念仏なら念仏そのものに化つて了はなき  や駄目ですかね。』      くわ  『そら一花開けば天地皆春なりで、指先を温めても全身が温く、皮膚も  強まれば内臓も強まるやうに、一切が相関的である以上、地球も一微塵  であり、一微塵に全地が包まれてゐるとも云へるのだ。眉間白毫相を見  れば自余の諸相は其の中に籠つてゐると仏も曰つてゐるぢやないか、一  染一切染で真言の所謂初地即極だ。一事に熱すれば万事を忘れるのも、  万事が一事であるからだ。音楽の天才はリズムに依つて一切が律し得ら                    わけ  れ、羽蟻の飛ぶのを究めたら地球の動く理も分るさうだからね。摂河泉  播の窮民の小前の者の為に生命を捨てた中斎先生は全国民の為、否、全  人類の犠牲ではないか。』

    
 


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