い つ
『併し、中斎の如うな何時何処で死んだか分らない人は、今に生きてる
如うにも思はれますが、日本の宗祖中では念仏嫌ひの道元が一番短命だ
み
つたし、念仏中の念仏者だつた親鸞は最も長命だつたのに徴ても、延命
長寿法として念仏するものを穴勝ち笑へないですね。』
『そら「華厳経」が光学、電気学となり「涅槃経」が煉丹術や精金法と
なり「聖書」が医書となり、食糧問題解決書となるは愚か、芥子園画伝
が盆栽の手本となつたり、此節の風景画が鉢山や生花の下図となること
を思へば「念仏」が長寿法とならんとも云へないよ。四国遍路すら業病
療法となることもあるからなあ。といつて御利益を頂かうと思つて出掛
けた四国遍路は却つて御不利益を頂いてるが…………』
はた すがた
『さうかて、「犬猫ですら他に見苦しい死体を見せないのだから、野山
たふ つもり
の果で斃れる了見で出掛やう」と云つて出かけた業病人でも、癒つて帰
るのは無いやうですね。』
『そりや足が地から離れてゐる人間は水へ陥ると足が立つものだ、どち
らにしても自我に執着してゐたのぢや助からないさ。「絶望は人間を荘
厳にする」と聞いて首を縊る真似したからつて、鶏が鳳凰にも見えやし
ないからねえ。』
だいわう
『それにしても、昔から念仏は人参倒しと云はれ、坐禅は大黄泣かせと
ちから む ね
いはれてゐるのは、前者が精分を増し、後者が停滞物を一掃して胸廊を
す
空かすからでせう。』
あ れ こ れ せ ゐ
『だから君も彼女や美僧やと雑業雑習を励んでゐる所為か、顔色が甚だ
悪い、チト念仏を注射するが可いさ。それに下らぬ雑職で、大分胸廊も
つか や
へてゐるらしいから聊か坐禅をつきまぜてね。南無阿弥坐禅と行るが
可からうぜ。はゝゝゝ』
あんでうや
『安定弄られましたね。真面目に聞いてましたのに…………』
『ナーニ戯論即真言、真言即戯論で、物の真相は夢でないと見られない
で ゑ
し、罪の自白は寝言に依らねば能きやしないよ、心理学者ですら、「酔
ひ ど れ げいご
泥酔漢の云ふ言と夢で見ることの物は、虚言囈語、真言あることなし、」
じやうだん ほか
といつてゐる如く、串戯を外にして真面目は無く、真面目を離れた串戯
もありやしないぜ。人が面白さうに笑つてゐる時の顔は底淋しく、真剣
に怒る人の顔を見ると可笑しくはないかね。』
いたづら
『すると「釈迦といふ悪戯者が世に出でゝ多くの人を迷はするかな」と
茶化した一休などは真面目な僧だつたのでせうね。』
ぶつ しんめんもく
『真面目なればこそ、其の歌一つに仏の真面目が露はれてゐるのぢやな
いろきちがひ あたら を と め てゝ
いか。「耶蘇といふ色情狂が世に出でゝ、可惜未通女が父無し子生む」
「ポーロてふ仲人口に欺されてあらぬ男に身を汚すかな」とゴツドの正
か
体を現はしたことにもなるよ。彼の安心決定抄を金を掘出す心地がする
かねをほりだす ほか
などゝ、勧財運動道具に使つて、弥陀像の外の像を薪にして風呂を沸か
した咎か、生涯又しても火事に遭ひ詰め、日夜危惧不安な境遇に在つた
かたら
蓮如が、濛々淡々六十年、洒々落々たりし一休と親しき語合ひは、真面
目と真面目のシンホニーだつたのだ。一休が瀬多の唐橋から身を投げか
けたのも真面目なら、臨終に「冷飯食つても生きて居りたい」と泣いた
じやうだん
のも串戯ぢやなかつたからな。』
さきほど
『では最前の「無断借用僧」ではありませんが、弟子の女房と奸通して
い
本夫から謝罪証文を書かされたと伝ふのも本当でせうね。』
『それや劉廷之の憾白頭翁の古詩七絶を白骨の御文章に焼き直して、多
け し
くの信者を泣かしながら、「死ねば極楽、やつつけろツ」などゝ煽動か
けて数へ切れない人間を南無六字城の防火壁たらしめた蓮如にでも訊い
て見ないと分らないよ。はゝゝゝ』
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