Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.8.17

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その35

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

六〇 徳川政府と吉利支丹

管理人註
  

 『やあ!いよ/\易が判つて来ました。然し徳川幕府に圧迫された吉利  支丹は、島原騒動以来、永却法度にされたと聞きますが、惨酷なる拷問                            や、暴悪な所刑を以つてしても、遂に絶滅することが能きなかつた道理  も解りましたよ。』  斯ういつてY君 は眼を輝かした。  『そりや君!鰻ですら、海から河、河から山と、山々苦労を重ねて来る    すきのとこ   い   ゑたい  と、五八寸と名ふ会体の解らぬ摩物に化るといふからね。地中海沿岸に  生え出た伴天連草が、印度洋岸を経て、我国の平戸、天草、嶋原の辺に                             はびこ  漂うてゐたが、何時の程にか、九州全体に根を拡げ、京都に蔓り、近畿             ひろが  は勿論中国に延び山陰に拡り四国に渡り、果ては関東、北陸から木曾一  帯、奥羽にまでも飛火して遂には全国津々浦々に繁茂し、結局日本を封  鎖する怪物になつたからなあ。』               おつしや  『怪物といへば、今、先生の仰在つた天草四郎や由井正雪なども五右衛  門、平八郎にヒケを取らない怪物ですね。天草四郎は言ふまでもありま  せんが、由井正雪の伴天連たることも分りました。如何なる場合にも刀  を抜かず、事窮まつて、黙念、火中に投じたところは基督的ですね。そ  れに正雪は嶋原と京都の間を往復してゐたかに思はれますが、京都には  古くから吉利支丹が根を下してゐたやうですね。』  『居たどころか、栗栖野などとの地名でも、平安朝に来た基督的教徒が    命けたのだからな。近い頃では永禄二年に来たガルバルト・ヰイラは将  軍義輝を口説き落し、同七年に葡国の宣教師が平戸に建てた礼拝堂即ち      なら  天門寺に倣つて同十一年に信長は四條坊門に日本吉利支丹の総本山南蛮  寺を建て、安土には会堂並に神学校を興して、宣教師も掃くほど居つた  ではないか。』  『豊後にも大伴宗麟が南蛮寺を建てたさうですね。』                       ふる  『南蛮寺は当時のハイカラ教会で、城廓といふ旧い教会は幾つもあつた  よ。牧師有馬晴信は久留米に、大村純忠は嶋原に、黒田如水は福岡に、  高山右近は高槻に、松永久秀は大和の志貴山口に、伊達正宗は仙台に、  小西行長は宇土にそれ/\旧い教会を建てゝ居たのだ。尤も小倉、柳川、               ・・・・  大村や、山口、広嶋並に和歌山、仙台、会津の如うな最も盛行地には、                          はいから教会も少くはなかつたらしい。物の本に載る宣教師五十九人、                   うはべ  寺院の数二百箇所、信徒十五万人とは表面から見た一部分に過ぎないの  だ。徳川期に入つてからでも殺された伴天連は二十六万人だと新井白石  はいつてゐる。』                               ゼウス  『天正四年、信長の建てた安土城に初めて天主閣を設けたのも、天帝を  祭る為でしたのでせう。』            くら                それ  『屋根の忍び返しや、庫の戸前などを十字架に形取つたのも其からの事  なのだ。』  『併し、初め永禄寺といつてたさうですね。』  『所が「桓武天皇から延暦寺の外には、年号をつける事が出来ないとい   ちよくじやう  ふ勅諚が下つて居る。況して蛮教の寺院に於てをやである。実に以て言  語道断な次第……」と、不良武士のグループたる叡山から朝廷に傲訴を  したので、ザツクバランの信長は朝廷の御迷惑を御察し申して、ザツク  バランに南蛮寺と改めたのだ。』  『すると墓地臭い、死人臭い京都も其の頃は幾らか熱があつたでせうね。』  『あつたどころか、伴天連の本場だけに、吉利支丹熱で燃え上つてゐた。  随つて吉利支丹に因んだ地名も多い。栗栖野なども其の一つだ。古い京                だいうす  都地図には、古ければ古い程、大臼町と云ふ町名が多い。それはゼウス                               ポント  の転訛であつて、何づれも説教所の跡なんだ。先斗町は葡萄牙の橋から                     あた       セント  とつたとも云ふが、実は南蛮寺の真正面に中るので、聖者町といつたの           だよ。セントと訓まして、「市街からボント離れた町だから」だとか、  「鼓の音がポンと響くからだ」などゝ、駄洒落で誤魔化したのは皆幕吏  の猿智慧から出たことなのだ。何しろ、復活の信仰を有つて居る信者が  ぼつたくらんことを恐れて、刑場の土まで掘取つて海底に投込んだのだ                        ヂウヂヤ  からね。僕は前にバビロンに俘虜となつたことが猶太人が真心剣になつ    も と  た素因の如うに曰つたが、京都も応仁の乱で焼払はれた事が興隆の土台  となつたのだ。信長や豊公が京都に基礎を据えなければならなかつたの  は、京都が発展の機運に乗つてゐたからだよ。』

   
 


『最後のマッチ』(抄)目次/その34/その36

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ