Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.6.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その4

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

三 大塩中斎と六甲山 (2)

管理人註
  

    ハ ミ ヲ     ハ ム  ヲ     ハ キ    ハ ナリ    ハ ミ    ハ イノチナガシ  『知者楽水、仁者楽山。知者動、仁者静。知者楽、仁者寿』の本文通        いのち              す た り、山の文化は寿長く、海の文化は廃頽れ易い。前者は自然の妙理に発足         もとづ し、後者は事智に本くからである。彼は創造し此は消散する。ナイル河は エジプト                         カフカサス 埃及高峰の文化を消散し、チグリスユーフラツトの姉妹河は高架索山脈の それ 文化を海に注いだではないか。       レ      キニ  ニカ ガ ツクル ヲ   うた            チ レ  『青山即是絶世、無人為誰為容』と咏はれ、『渓声便是広長舌、山   ニ ザランヤ  ニ 色豈非清浄身』と讃へられし美人にして高僧たる此の山岳は、亦恐ろし つるぎ                  さいは き生命の剣であつて、不思議に民情の混沌を破し人事の葛藤を切断する。 我国が東西聊か風習を異にせるも区々一函嶺の遮断に基き、支那の南北が 古来如何に相争ふも全然分裂せざる所以のものは、山の之を遮るもの無き              ベルジユーム が為であり、独仏に介在せる白耳義にして若しも山脈なりしならんには、         おこ 彼の世界的大戦も想らなかつたゞらうと想はれる。等しく易理を宗とする                        けいてい 支那の仏教たる儒教が、印度の儒教たる仏教と其の逕庭の著しく、印度の     ヴラーマン 道教たる波羅門が、支那の波羅門たる道教と全然其の趣を異にしてゐるの                          ユダヤ も、重畳たる高峰の両地を遮断せるが為であり、東亜の猶太教たる○○が              やくぜつ 亜西の○○たる猶太教と万里却絶の感ある、畢竟亜細亜てふ大山嶽の然ら しむる所である。陰陽一道活殺雙刃の易哲学が中央亜細亜の高原に発見さ れたのも亦無理からぬことゝ云はねばならぬ。                          よみが  されば多少でも易を学んだ者が、俗情に死して純心に蘇らんとし、広く 海に航して外的に可見的世界に発展するよりも、寧ろ山に遯れて内包的に、 不可見的世界に向上せんと欲するの傾向あるは自然の因縁である、声も無         こと く臭も無き上天の載を聞かんとするも足地底を離れざるの易を信じ、天陽    いんうん            かは          む げ 地陰の交感して終古に渝りなき円融無碍の妙理を体得して、無辺の虚 空に無辺の世界ある、畢竟これ自己心内のもの、無辺の世界亦無数の衆生 あるも、要するに身外の自己に他ならじと、太極無極、法身一体の玄義に                          はんとう 参徹してゐた中斎が、同時に山嶽を好んで官暇しば/\攀登の快を貪り、                    なぐさ 口に太虚を吐いて心を洗ひ、生を慰め死を藉め、而も実人生に浸潤しつゝ、     かう         む         やしな 彼の所謂行即知、信即无の不動心に培ひつゝあつたことは疑ひを容れざる                                処である。分量多からざる彼の詠藻中、登山詩の比較的尠からぬに徴ても、        彼れの生活の這の半面が窺はれる。      貧弱論ふに足らぬ僕の蔵幅中にも、芳野から岡田半江に宛てた書翰、鷲 尾山(摂州池田の西にあり)に游べる詩稿、筑紫の山僧に贈りし絶句など、 山に因める彼れの遺墨がある。筆を至高至深の悲願に染めた。血文字の大      神呪とも讃ふべき彼が一代の遺著『洗心洞剳記』は、親しく彼れの手に依      てん  うづ               あさま      や りて富士山巓に埋められた。転じて朝熊山頂に燔き去られた其の残稿は、                  ・・・・ 黙然声無き山霊に何事を訴へんとしたわざくれであつたらうか。                          すべか   てうけいいうろ  僕が幽深偉大なる彼れの心事を探らんと欲する者は、須らく鳥径熊路を                      とざ   きやう       い 攀ぢて、世塵遠く及ばず、白雲深く千古の秘密を鎖すの境に問へと断ふの も、決して無意味な放言ではないのである。             ひそか  彼が事を挙ぐるに際し、窃に門弟某を随へて六甲山に登り、  『我登山すること二回、能く険要を知る、事破れなば即ち拠らん。』  と語つた。門弟応へて                     こ     し  『険は険なりと雖も勝敗は兵にあり、師請ふ三思せられよ』                       と諫めたと云ふ。此の事多く当時の記録に載するところで、その真偽は 問はず、流俗の間に伝はつて居る。門弟某は養子格之助であつたとの説も     ある。況して池田、伊丹、三田、尼ケ崎、西之宮、御影其他、即ち六甲山 麓に点々羅布してゐる村々落々に多数の門下を有し、来つて学びしは勿論 ながら、時には往きて教へしことすらあつた。地理的の因縁は、さらでだ に愛山癖のあつた彼れの夢魂、幾度か其の頂辺に低迷せる白雲と共に、去 来したことは更に疑ひ無きところである。  静かなること山嶽の如き志量の中、猛火烈々の気概を蔵して、遣る瀬無                  き孤独に泣きし箇の英霊漢は、今や逝いて何れのところにか在る。思うて            うち 茲に至る時、市井紅塵の裡にして、あゝ僕は目を挙げて西の方六甲を望ま                     あえ   かうべ んとして、而も霧よりも濃き煤煙に遮られ、敢無く頭を俯して大息苦吟せ しこと、果してそれ幾回であつたらうか。

   

 


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