とんざん エピソード
次に中斎の六甲遁竄説に多少の蓋然性を加へしめる挿話は、摂州須吹田
西之町浜之宮神職、宮脇志摩守の哀れな最後である。志摩は中斎の叔父、
・・
父教高の弟で、文政六年十一月、宮脇日向存生中、娘りかの婿養子となつ
な
たのであるが、甥中斎の人と為りに畏服し、勿論親みも深かつたので、挙
つら
兵の連判状には、イの一番に其の名を列ねてゐる。中斎が窮民施行の為、
つ
蔵書の悉くを売却した高義に感激して、志摩も其の身属きの器具一切を金
あ た
に代へ、村内の難渋人に分与へたといふことである。
されば中斎が救民義挙の、志を決するや、何人よりも先づ彼れに打明け
たと云ふのも至当の想像である。或は病の為に戦に参加し得なかつたと云
ふ説もあるが、事実は矢張り参加してゐたらしい。兎に角、天満方敗走後、
おほづゝ とりて
遺棄せし大砲に、志摩の名も記されてあつたので、奉行は直ちに捕吏を宮
・・ はた
脇方へ差向けた。所が志摩の妻りかは、夫不在中は機を織りつゝも門下の
りこう
通学生に、経書の代稽古を附けてゐた程の怜悧者、槍を中斎に学び、男勝
とりて お
りの手腕もあるなか/\の女丈夫であつた。突如押寄せ来つた捕吏に、怯
たくみ
めず臆せず巧妙に折衝して、訳もなく其儘引取らせたのも怪しむには足ら
も かちう
ない。而して捕吏が再び引返して来た時には、志摩守の姿は既う家中に見
られなかつた。彼は殊勝にも覚悟を定めて、妻が捕吏と応対してゐる間に
自決せんと、奥の一間で一刀を腹に突ッ立てたが、間もなく駆付けた妻は、
も
矢庭に刀をぎ取り、疵の手当をして、死を以て中斎の後に随ふべく、密
かに甲山へ向はしめた。勿論これは不幸敗戦の暁は、甲山に立籠つて再挙
を図らんと、一味の間に申合はされてあつたが為である。然るに其の翌朝、
したゝ
とある畑中の灰小屋から、ポトリ/\と滴つてゐる血潮の痕を認めた捕吏
い
は、その血潮を辿つて甲山道の小沼の中に、志摩守の死体を発見したと伝
ふことである。
や いのち
以上は事件当時、漸つと十五歳であつたが為に、成規に依りて生命ばか
りは助けられ、薩摩の屋久島へ流されたが、明治四年廃藩置県の時、赦免
ぢきわ
に遭つたと云ふ志摩守の忰の忰だと自称する老人の直話である。(此の老
あつち こつち
人の父即ち志摩守の忰が流罪になつた時、彼方此方から祝はれたとか云ふ
ことである。大阪府下箕面村字半丁、浄蓮寺老住職の妻女の談に、自分の
い
親元は吹田村近くの才寺と字ふ在所ですが、亡父村上某も志摩守の弟子で
したので、矢張り祝ひに行つたと生前話してゐたことがあれました云々)
当時の聞書の彼れ此れに録されてあるところと相違の点もあつて、其の儘
うけい
信受れることは出来ぬとしても、彼れが甲山指して逃れたと云ふ一事は、
塩門の子路とも云ふべき大井正一郎が中山にて捕縛されたと云ふ伝説と共
すくな
に、中斎の六甲遁竄説に対して尠からぬポツシビリチーを与ふるものでは
ないか。
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