おく
小便をしてゐた為に、後れて入つて来たY君の声である。
ど き ちが
『や、これや八多村の若旦那ですかえ、こんな奴気狂ひが飛び込んでう
せやがつたものですから…………』
かね
『馬鹿ツ!虎公。この方は予て話して聞かした大阪の○○先生だよ。』
す く
電気仕掛の如うに虎公、堅く掴んだ僕の胸倉を、急に放して立ち萎縮ん
だ。
が ば
今まで、一言も発せずに静かに傍観してゐた、今一人の青年も、俄破と
ぬか
立つて来て僕の前に額づいた。
『初めてお目にかゝります。あなたが○○先生で御座いますか。Y君か
ら何時も先生の事は承つてゐました。私はY君と竹馬の友でMと申す青
二才で御座います。知らぬ事とは申しながら、虎公が飛んだ御無礼を働
まをしわけ
きまして、何ともはや謝罪辞が御座いません。ナニ腹の無い至つて可愛
どうぞ
い奴で御座いますから、何卒勘弁しておやり下さいまするやう。』
おちつき まじめ
見ると眉目秀麗な、沈着のある、真摯さうな青年である。僕は間の悪る
さうにしてゐる虎公の手を取つて、無理遣り上座に坐らせて、
『イヤお目にかゝるのは今が初めてだが、お二人のことはY君から聞い
けふこつ
てゐましたよ。日本にも虎さんの如うな侠骨児が居られると思へば、真
いき
に頼もしい。若しY君の来るのが、今一秒遅かつたら、僕は虎さんの鉄
拳を頂戴してゐるのだが、実に惜しい事だつた。』
ど う しゝ や
『如何して、猪を手撃ちにすると云ふ、此の鉄拳で殴られちや、いかな
先生でも堪りますまいよ。』
Y君が苦笑する。
『打明けて云ふと、僕は実際生きてゐたくは無いんだ。といつて自殺を
する程の物好きも出来ないから、誰か僕を叩き殺して呉れる者があつた
お て
ら、僕はそれこそ浄土へ迎へ給ふ弥陀の御手として、拝みながら往生す
る覚悟だよ。』
しやう もろて
上座に請じて置いた虎公、何時の間にやら下手に下つて双腕を組んで考
へ込んでゐる。
ふさ
『どうしたへ、虎公!えらう鬱ぎ込んでゐるぢやないか。』
M君が問ふ。
『イヤ、わたしや、此年になるまで、こんな辛い思ひをしたことは御座
いません。若い時分から喧嘩好きで、随分人様に迷惑をかけて来やした
や
が、イヤもう今日限り喧嘩は止めちまつて、お袋にも安心させやせう。
ど おゆるし
○○先生、何うか御勘免なすつて、ハイ。』
にじ
鬼の如うな眼に涙が滲んでゐるのを見た僕は、一緒に泣き出したくなつ
た。
さ
『中斎先生の墓が、君の目に見えたのも、全く爾うした本心の尊さがあ
るからだ。実は僕等はこれから君が数年前、チラと見たと云ふ先生の墓
を探しに行く途中なんだ。君!一緒に行つて呉れませんか。』
虎公はたう/\男泣きに泣き出した。
『とてるお口には合ひますまいが…………』
僕等の前へ酒肴を運んで来たお神さんも平身低頭、頻りに詫を言ふ。斯
くて一座は打解けて何だか一家族の如うな感じがして来た。且つ飲み且つ
ていたらく う た うたひ
語り且つ食ふといつた為体。M君が即興の短歌を書く、Y君が謡曲を歌ふ、
いさま とき
虎公の勇しい猟話、それ/゛\の面白さに刻の移るのを覚えず、たう/\
よふけ
夜深になつて了つたので、一同此処に一泊することにした。
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