かいち い むかふ
『此処が「城の垣内」と称つて、来がけに話しました東北方に見える円
山に築いてゐた、山口五郎太夫が居城の外廊の一部であつたらしいです。』
斯う言ひながらY君は、松風木高く吹き残りて雑草離々たる小高い丘を
とみかうみ もと
駈け上つて左顧右盻、何か探し索むるものゝやうである。
こつち
『Y君、例の井戸から此方だよ。』
つ
M君の行く方に跟いて行くと、果して古い井戸があつた。
『先生、五六年前の事ですが、此の井戸から鎧を一領掘り出した者があ
るのです。鑑定の結果、其の鎧は百年も経たない、比較的新しいものだ
といふ事でしたが………………』
かたみ
『何だか大塩党の記念の如うにも思はれますね。』
ふたり
MYが説明して呉れる間に、僕は其の井戸を覗いて見たが、空井戸で、
さして深くもないが、思ひ成しか、何だか底に一種の鬼気が漂うてゐるや
うに感じた。
『M君、君の詩才を以てして、何か一句出ませんかね。冑の下のきり/゛\
ふるゐど ものゝふ
す、といふよりも、古井の中に投げ込まれた鎧は、一層悲惨な武士の末
路を語つてゐるぢやないか。鎧といへば、如何にも勇しい武者振を偲ば
けんかん せいちゆう
せる。それが「険坎」の井中に陥り、而も坎中水枯れて、そのまゝの墓
穴となつてゐるとは、これはまた何とした荒涼たる幽趣であらう。その
きく
鎧が大塩党のものであると否とに拘らず、僕は一掬の涙を手向けずには
ゐられない。』
あ
『あ、先生は易がお好きなだけ、それだけ俗易者はお嫌ひでせうし、彼
そ れ
の円山の稲荷社の神主は俗易者なのですが、所謂世間の俗易者とは聊か
ことし
選を異にしてゐるやうです。柏木健蔵と申しまして、当年七十七の老体
ですが、元三田藩で、大塩の事蹟に就いても、何か聞いてゐるだらうと
思ひますから、一寸訪ねて見ませうか。』
僕はM君の此の提言を聞いて、最高のものほど最底の取扱を受け易いも
ふしゆく
のとは云ひ條、世に巫祝と俗僧と俗易者ほど下らぬもの、無智なもの、有
害な者は無いと古人も云つてゐるが、又真の易者も俗易者の中にあるので
あた ことはざ さ
ある。「中るも八卦、中らぬも八卦」と云ふ諺は、全く爾うした消息にも
みやうにち
通ずる。明日の晴雨の精確に判る人なら死後浄土へ行くか地獄へ堕ちるかゞ
判る人であり、紛失品の所在の判る人なら神の所在も分つてゐる人に違ひ
ないからだ。それは兎に角として、何か目に見えぬ或る者が、一行を適当
からすゐ
に導いてゐるやうに感じて、早速円山稲荷へと足を早めた。鳥居は烏居の
てんか かたど
転訛であつて、「天」の字に象つた太陽中に烏が居るとの意味でもあるま
ゐど た
いが、兎に角太虚の井である。民族差別の扉も無く迷信の戸も閉てず、生
なまち
命の自在を表はした天地生成の易の門である。しかし僕は大自然の鮮血と
さいな は
覚しき常緑葉に、苛まれた人間の血の色を偲ばせる褪げちよろけた赤色の、
いだ
古い鳥居の抱かれた円山の光景に、初めて稲荷の有難味が感ぜられた。そ
そ れ
れに伏見稲荷などの鳥居には、願主の姓名は素より職業まで書きつけられ
た全然広告用の、見るから俗臭紛々たるものがあるのにひきかへ、まだ村
こ ゝ
社にもならぬと云ふ此社の鳥居は、貧弱なこと言ふまでもないが、願主の
くゝり
姓名すら記さず、卯の年の男とか、丑の年の女とか別札に書いて細縄に括
付けてあるのが、何となく床しく感じられた。
|