い
論ふまでもなく幕府の公文書に拠れば、中斎父子は大坂靭油掛町三好屋
五郎兵衛方の離れ座敷に、自ら火を放つて死んだ事になつてゐる。しかし
とりて こげ
捕吏が火中より引摺り出した死体は真ッ黒焦になつてゐて、事実果して其
の人々であつたか否かは疑問である。たゞ捕吏中の一人二人がチラと顔を
み しか
瞥たとか、声を聞いたとか云ふところから当時の吟味役が然く決定したの
であるが、勿論疑へば疑ふ余地は大いにある。何にもせよ大塩勢敗れて四
散してより三十五日といふもの、御大中斎の行方が不明であつたので、当
きやう/\ おちつ
時世間の取沙汰は紛々擾々、人心恟々として沈着かなかつたが、六甲山に
立籠つてゐると云ふ事も、確かに一部の人に信じられてゐたらしい。
三好屋自殺説を否定するものは、次の様に云ふのである。
いかめ
(イ)兎に角、一旦市中の警網を遁れ出た中斎が、再び詮議の厳しい町
中、而も救民其他の旗、差物など、挙兵当時の染物一式を調製した
かど
廉で、其筋の厳しき吟味を受 け、町預けを食つてゐる。それも法
ど
被職人同然の三好屋に投じて、死生を其処に托したと云ふことは何
うしても受取難い話である。
(ロ)三好屋に於れる焼死者が中斎父子なりしや否やは、検屍上確実で
なかつたのだけ れど、民心の騒擾を防ぐ為と、且つは本人逮捕の
し
一手段として、仮に然か定めて 了つたのである。
もつとも
以上(イ)の判断、一応有理に聞えるが、それは戦術に所謂安全界に飛
もくせう まちなか
び込んだもので中斎が何人も、よもやと思ふほど、秘事は目睫の市中に一
しやしん
時身を隠したとしても、それは彼れの捨身的行動として信じられぬ事はな
いのである。しかし(ロ)の推定に至つては大いに参考の価値がある。焼
かへだま
死者の面貌が不明であつたのは、或は身代ではなかつたか。果して然らば
幕府が民心を鎮める為に、その屍を中斎父子のそれと断定したのは、偽つ
ゆる
て斯る死状を示し、幕府の捜索の手を緩めやうとした中斎の計略にかゝた
たのではあるまいか。中斎門人と自称してゐた故田能村直入の如きは
『大塩先生がお若い時分に、江戸へ行かれた途中、箱根で二人の盗賊を
おさ ねんご
取つて圧へられたが、改心の見込ありと認められたのか、懇ろに其の不
ゆる き
心得を戒めて赦してやられたさうですが、殺されるとのみ思ひ決つてゐ
た二人の賊は、その慈悲が心魂に徹したものと見えて涙を流し、「今日
い つ むく い
の御深恩は、何時か命にかけて酬ゆる時機も御座いませう」と誓つて立
のち ひなた
別れたらしい、所が其の後真人間に立帰り大阪へ出て、蔭になり日南に
ま も い
なり大塩先生の身を守護つてゐたと伝ひますから、三好屋から出た彼の
黒焦死体は或は此の両人であるかも知れませぬ云々』
い
などゝ語つてゐた。尤もこの箱根山捕盗説は、維新後間も無く発刊され
く さ ざ う し い
た稗史小説の類にまで散見されてもあるし、今に能く人の伝ふところであ
あきら はなし
るが、其実中斎の江戸行すら今猶明かでないのである。直入の斯の談のあ
い
てにならぬのは論ふまでもない。
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