Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.6.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その6

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

五 謎の黒焦死体 (1)

管理人註
  

   論ふまでもなく幕府の公文書に拠れば、中斎父子は大坂靭油掛町三好屋 五郎兵衛方の離れ座敷に、自ら火を放つて死んだ事になつてゐる。しかし とりて                 こげ 捕吏が火中より引摺り出した死体は真ッ黒焦になつてゐて、事実果して其                  の人々であつたか否かは疑問である。たゞ捕吏中の一人二人がチラと顔を                          しか 瞥たとか、声を聞いたとか云ふところから当時の吟味役が然く決定したの であるが、勿論疑へば疑ふ余地は大いにある。何にもせよ大塩勢敗れて四 散してより三十五日といふもの、御大中斎の行方が不明であつたので、当                きやう/\     おちつ 時世間の取沙汰は紛々擾々、人心恟々として沈着かなかつたが、六甲山に 立籠つてゐると云ふ事も、確かに一部の人に信じられてゐたらしい。  三好屋自殺説を否定するものは、次の様に云ふのである。                              いかめ  (イ)兎に角、一旦市中の警網を遁れ出た中斎が、再び詮議の厳しい町    中、而も救民其他の旗、差物など、挙兵当時の染物一式を調製した    かど    廉で、其筋の厳しき吟味を受 け、町預けを食つてゐる。それも法                                     被職人同然の三好屋に投じて、死生を其処に托したと云ふことは何    うしても受取難い話である。  (ロ)三好屋に於れる焼死者が中斎父子なりしや否やは、検屍上確実で    なかつたのだけ れど、民心の騒擾を防ぐ為と、且つは本人逮捕の                 一手段として、仮に然か定めて 了つたのである。             もつとも  以上(イ)の判断、一応有理に聞えるが、それは戦術に所謂安全界に飛                           もくせう まちなか び込んだもので中斎が何人も、よもやと思ふほど、秘事は目睫の市中に一                  しやしん 時身を隠したとしても、それは彼れの捨身的行動として信じられぬ事はな いのである。しかし(ロ)の推定に至つては大いに参考の価値がある。焼                  かへだま 死者の面貌が不明であつたのは、或は身代ではなかつたか。果して然らば 幕府が民心を鎮める為に、その屍を中斎父子のそれと断定したのは、偽つ                  ゆる て斯る死状を示し、幕府の捜索の手を緩めやうとした中斎の計略にかゝた たのではあるまいか。中斎門人と自称してゐた故田能村直入の如きは  『大塩先生がお若い時分に、江戸へ行かれた途中、箱根で二人の盗賊を     おさ                      ねんご  取つて圧へられたが、改心の見込ありと認められたのか、懇ろに其の不        ゆる                       心得を戒めて赦してやられたさうですが、殺されるとのみ思ひ決つてゐ  た二人の賊は、その慈悲が心魂に徹したものと見えて涙を流し、「今日         い つ            むく               の御深恩は、何時か命にかけて酬ゆる時機も御座いませう」と誓つて立             のち                 ひなた  別れたらしい、所が其の後真人間に立帰り大阪へ出て、蔭になり日南に            ま も       なり大塩先生の身を守護つてゐたと伝ひますから、三好屋から出た彼の  黒焦死体は或は此の両人であるかも知れませぬ云々』       などゝ語つてゐた。尤もこの箱根山捕盗説は、維新後間も無く発刊され   く さ ざ う し                      た稗史小説の類にまで散見されてもあるし、今に能く人の伝ふところであ                あきら              はなし るが、其実中斎の江戸行すら今猶明かでないのである。直入の斯の談のあ         てにならぬのは論ふまでもない。

   


『最後のマッチ』(抄)目次/その5/その7

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