Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.6.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その7

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

五 謎の黒焦死体 (2)

管理人註
  

    いづ  事実は何れにあるとしても、兎に角、後人をして、永く斯うした想像に                とんざん        迷はしめ、寧ろ何となく何処かに遁竄して居つたかの如うに想はしむる所 に、非凡なる中斎其人の霊格が仰がれるではないか。僕は数年前、中斎研           いろ/\      しゆ/゛\ 究に没頭してゐた頃、種々の人から種々の臆説を聞かされた事である。曰                のが く彼は大島へ渡つた。曰く朝鮮へ遁れた。支那へ行つた。イヤ米国に、イ                  かくま         いな ヤ和蘭陀に、濠洲に、ナーニ雲州藩が庇護つたのだ。否薩摩藩へ落ちたの                      ひがしのとうゐん だ。伏見鳥羽の合戦が済んでから京にも上り、東洞院蛸薬師東へ入つた処 に、誰憚らず「大塩平八郎」と表札さへ出てあつたのを見て知つて居る者                          こんなこと   い がある等、紛々として更に取止めがない。前記直入も生前斯麼言を吐つた 事もあつた。  『維新早々の頃であつた。大坂の薩摩邸に留守居をして居つた、石原源                はづ  之助と云ふ老人に不図出合つた機みに、大塩平八郎といふ人は全体何う  いふ容貌であつたと尋ねるから、「スラリと背の高い、鼻の高い、眉の                                 少し釣上つた少しおデコで、全体に於て痩形であつたが……」と答つて                         あ れ  やると、源之助老人は丁と手を打つて、テツキリ彼人に違ひないと云ふ。           「何ですか」と訊くと、「イヤ大きな声では云へないが、只今のお話に  よくに       たしか  酷似た老人を確に藩(鹿児島)で見受けたよ」と云ふので、更に詳しく           聞いて見ると、怎うやら藩にかくまはれて維新の参謀となつてゐられた  らしい云々」                      たゝかひ  などゝ語つて、何だか延元元年五月四日湊川の戦敗れて湊川北方の民舎 とか、奥平野の広厳寺の塔中無為庵とかで、七十二人の残徒と一緒に、弟    さしちが 正季と刺へて死んだと云ふのは家来が身代りに立つたので、本人は僧侶     やつ       かく 姿に身を扮し漁船に潜れて海路紀州に遁れ、後河内に入りて潜かに正行を          指揮してゐた。と伝ふ楠公遁竄説を聯想せしめたこともあつた。  それに大正五年の夏亡くなつた木蘇岐山(漢詩人)、生駒の滝寺に隠棲 してゐた岡村閑翁(再昨年亡くなつた森田山外の弟子)、九十三歳の高齢             えきさく を以て閑翁より少しく前に易簀した、紀州の倉田績(佐藤一斎の門人)、 大正七年春物故した藤沢南岳、七十三歳の老齢で最近歿した近藤元粋等の                      老学究は、或は強く或は弱く、殆ど申合せた如うに三好屋自殺説を否定し、 乃至海外遁竄説を主張されたのも不思議である。それで僕は旧稿「大塩中 斎」(旧著『三都生活』中に収む)中「中斎の死状に就きて」の一文を草                             つと した後、出来るだけ彼れの遁竄説を保証する材料を蒐集せんと力めたが、 六甲山中にその遺跡は無いかといふことは、其の間絶ず僕の脳裡に往来し た主調的暗示であつたのである。


遁竄
逃げかくれる
こと


















「中斎逸話易簀
学徳の高い人
の死
 


『最後のマッチ』(抄)目次/その6/その8

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