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いづ
事実は何れにあるとしても、兎に角、後人をして、永く斯うした想像に
とんざん や
迷はしめ、寧ろ何となく何処かに遁竄して居つたかの如うに想はしむる所
に、非凡なる中斎其人の霊格が仰がれるではないか。僕は数年前、中斎研
いろ/\ しゆ/゛\
究に没頭してゐた頃、種々の人から種々の臆説を聞かされた事である。曰
のが
く彼は大島へ渡つた。曰く朝鮮へ遁れた。支那へ行つた。イヤ米国に、イ
かくま いな
ヤ和蘭陀に、濠洲に、ナーニ雲州藩が庇護つたのだ。否薩摩藩へ落ちたの
ひがしのとうゐん
だ。伏見鳥羽の合戦が済んでから京にも上り、東洞院蛸薬師東へ入つた処
に、誰憚らず「大塩平八郎」と表札さへ出てあつたのを見て知つて居る者
と こんなこと い
がある等、紛々として更に取止めがない。前記直入も生前斯麼言を吐つた
事もあつた。
『維新早々の頃であつた。大坂の薩摩邸に留守居をして居つた、石原源
はづ
之助と云ふ老人に不図出合つた機みに、大塩平八郎といふ人は全体何う
いふ容貌であつたと尋ねるから、「スラリと背の高い、鼻の高い、眉の
い
少し釣上つた少しおデコで、全体に於て痩形であつたが……」と答つて
あ れ
やると、源之助老人は丁と手を打つて、テツキリ彼人に違ひないと云ふ。
き
「何ですか」と訊くと、「イヤ大きな声では云へないが、只今のお話に
よくに たしか
酷似た老人を確に藩(鹿児島)で見受けたよ」と云ふので、更に詳しく
ど
聞いて見ると、怎うやら藩にかくまはれて維新の参謀となつてゐられた
らしい云々」
い たゝかひ
などゝ語つて、何だか延元元年五月四日湊川の戦敗れて湊川北方の民舎
とか、奥平野の広厳寺の塔中無為庵とかで、七十二人の残徒と一緒に、弟
さしちが
正季と刺へて死んだと云ふのは家来が身代りに立つたので、本人は僧侶
やつ かく
姿に身を扮し漁船に潜れて海路紀州に遁れ、後河内に入りて潜かに正行を
い
指揮してゐた。と伝ふ楠公遁竄説を聯想せしめたこともあつた。
それに大正五年の夏亡くなつた木蘇岐山(漢詩人)、生駒の滝寺に隠棲
してゐた岡村閑翁(再昨年亡くなつた森田山外の弟子)、九十三歳の高齢
えきさく
を以て閑翁より少しく前に易簀した、紀州の倉田績(佐藤一斎の門人)、
大正七年春物故した藤沢南岳、七十三歳の老齢で最近歿した近藤元粋等の
や
老学究は、或は強く或は弱く、殆ど申合せた如うに三好屋自殺説を否定し、
乃至海外遁竄説を主張されたのも不思議である。それで僕は旧稿「大塩中
斎」(旧著『三都生活』中に収む)中「中斎の死状に就きて」の一文を草
つと
した後、出来るだけ彼れの遁竄説を保証する材料を蒐集せんと力めたが、
六甲山中にその遺跡は無いかといふことは、其の間絶ず僕の脳裡に往来し
た主調的暗示であつたのである。
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遁竄
逃げかくれる
こと
「中斎逸話」
易簀
学徳の高い人
の死
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