つ
Fさんとやらは玄関に衝つ立つたまゝ、庭に立つて慇懃に挨拶する僕等
を頭の上から睨み下して、
『何の用ぢや。』
叱り附けるやうに尋ねる。
さしつか
『承れば、大塩の掛物を御所蔵との事、御差閊へなくば一寸拝見が願ひ
たいもので…………』
と云ふと、
どうぞ
『さうですか、それぢや何卒お上り下さい。』
かへ きくきゆうぢよ みんな
と手の裏を反した如うに、鞠躬如として一同を二階座敷へ案内する。火
せ あはたゞ
を持つて来い、お茶ぢや、菓子ぢやと、家族を急きたてる慌しさ。M君は
ほゝゑ い
僕を顧みて微笑みつゝ語つた。
かけもの か
『テツキリ我々を掛物を購ひに来たと睨んだのでせうよ。見せることす
ら断はるかと思つて居ましたのにねえ。何だか利欲一点張りの俗物らし
ど
いですから、怎うせ法外の値を吹くであらうとは思ひますが…………』
さ
『マサカとは思ふけれども万一爾うだとすれば、霊の父とも慕ふ中斎の
いと
墨蹟、財布所か、身代の底を叩いても厭ふ所ではない。』
い ひら
斯う囁つて僕は今や遅しと軸の披かれるのを待つてゐると、Fさんは地
だいふく
袋の中から巾五尺もある大幅を取り出して、長与専斎が賞めたの、緒方拙
斎が感心したのと、前口上を述べ立てゝさも勿体らしく、床の間へソロリ
かしら と き
/\とかけ出したが、文字の頭がチラと見えた刹那、僕は覚えず、
ちが
『そりや大塩の書と異ひます。』
と叫ばざるを得なかつた。それも其の筈、中斎先生の筆蹟とは似ても似
も の おもむ ひろ をは
つかぬ甘い書風だからであつた。Fさんは徐ろに拡げ了つて、
こ れ
『何、大塩の詩幅は此幅ぢや。』
けんどん
と俄に変る慳貪声。
『待てよ?』
よく み
僕は近寄つて熟視ると、
ムルコト シ ノ ハ チ ニ ス ヲ
秋霜染 遍 乱峰中、影落渓流水漾紅、
レタリ ル ニ ノ ニ リ ノ
慣 看高雄千樹錦、世間更有馬山楓
ス
甲午小春浴大塩原山霊泉雑詠之一 秋厳史
とある。成程大塩の詩幅には相違ないが、大塩中斎の詩幅ではなく、緒
はらやま
方洪庵門下の小石秋巌たら云ふ医者の書いた大塩原山即ち有馬温泉の駄詩
である。僕は心に苦笑を禁じ得なかつた。併し六甲山に大塩原山の異名の
存せるは、多量に塩分を含める為ではあらうが、何だか中斎と六甲山との
因縁関係を、一層色濃くしたかのやうな心地もするし、いよ/\山に入ら
んとする今日唯今、ゆくりなくも斯うした掛物を見るといふのも、今回の
挙の決して徒労に終らざる暗示と思はれて、僕は聊か心嬉しくも思つたが、
ぶつ/\
大塩違ひであての外れたFさんは、怫々呟きながら、サツサと軸を捲きお
さめて、物をも云はず階下へ降りたきり、再び出ては来なかつた。
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