つ
Fさん方を辞して戸外へ出たら、電灯が点いて午後の六時を知らせて呉
れたのに、「オヤ!」と驚いて、一同は分れの一行と合すべく、温泉神社
へと急いだ。
ど こ つか
所が旅館は何坊も閊へてゐると云ふのに、温泉神社には猫の子一人居な
まつご
い。別動隊も未だ来て居らぬ。たゞ暮鐘が殷々と世の末期を告ぐるが如く
に響いてゐる。此の神社の真下にある薬師寺の鐘である。仏像は初手に拝
はじめ
んだ人によつて有難味が決まり、鐘は最初に鳴らす人によつて音響が定ま
そうもく
るとか。薬師は焼けども尽きず枯れても/\、亦萌出づる草木の精であら
こ れ つきそ
うに、此鐘は瀕死の病人に撞初められたのではなからうか。斯うした思ひ
に引摺られるとも引摺られたか、僕は行くとも無しに薬師寺に行つて見た。
も
併し既う本堂は閉されて居る。此の地に顔の売れてるらしいM君が、いき
なり庫裡へ入つたと思ふと、やがて本堂の戸が開かれて不時の珍客でも来
たかのやうに、一同を堂内へ招き入れて、叮嚀過ぎるほど叮嚀に待遇して
だいこく あ れ
呉れる。同じ梵妻でも円頂寺の彼女とは雲泥の相違である。
る す
『折悪しく住職は不在ですが、御所望なれば…………』
とも
と、逐一に灯明を点して、
『これが丈六の本尊薬師如来、これが行基菩薩の自刻像、これが国宝の
多聞天……………』
そ
と、親切に案内して廻つて呉れた。而して頼みもしないのに、本堂に据
ゆびさ
えてある大長持を指して、
『此の中に一切の寺宝が入つてありますから、どうか随意に御覧下さい
ませ。国宝も二三点ある筈ですから…………』
と燭台と共に言ひ置いて、梵妻は庫裡の方へ退いて了つた。
こ ゝ
『此寺のことを思ふと円頂寺の気が置けなさが有難いですよ。』
こんなこと い
何故かM君は斯麼言を吐ひながら、長持の寺宝を片つぱしから出して見
も の なんのなにがし
せた。「有馬温泉入湯心得」と題した記録がある。行基菩薩の作、何 某
ひろ
謹写と云ふ一巻である。披げて見ると、入湯者は厳重に五戒を守らねばな
からだ むかふ
らぬこと、入湯に際しては先づ水にて身体を拭き浄め、浴槽の対方の高壇
うや/\
にまつられてゐる薬師如来に 恭 しく礼拝して、心経、若しくは薬師本願
じゆ
功徳経を誦すること、誦し終れば、先づ下湯で身を清めて、湯を三度頂き、
合掌九拝してそろ/\入るべき事など事こまやかに認められてゐる。
『此の入湯心得を実行せねばならんことになると、六甲山の鳴動以上に、
湯治客は逃げ出すでせうね。』
『しかしもし此の入湯心得を真面目に実行の出来る人なれば病気に罹ら
ないだらうから、入湯に来やしなからうぜ。』
こんな
斯様ことをいつてるところへ別動隊がやつて来たので、打揃つて旧温泉
の西隣、二階坊と云ふ旅館へ繰り込んだ。一同は旧温泉に浴して終日の汚
塵をすゝぎ、隔ての襖を外して三間を一室に、晩餐を了つた時、時計は午
ふ
後の十時を打つた。斯くて此家に一泊したが、「斯うした淫靡な地に、平
だん みんな
素ならば旅の恥をかきすてる手合もあらうのに、一同神妙にしてゐたのが
ご
奇妙ぢや」と、例の青年会長は独り言つた。
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