こんな
『しかし僕が何か大悪事を働いて追手を避けてゐるのであつたら、恁麼
おちつ
時に却つて心が沈着くのであらうが、否、斯う云ふ時には周囲の草木ま
な せめさいな
でが敵となり、悪魔と化つて僕を根こんぞ責苛むであらうのに、善事ど
ころか悪事すら行はれない無能無力が幸福となつて、斯うした夕暮の山
さなが すみゑ
景が宛ら墨画の巻物かに見えるではないか。』
うづく おちつ
実際負惜みで無く、地上に蹲踞まつて心を沈着けると、淋しい底に、又、
斯うした喜びも湧き上つて来た。しかし、星影も漏らさぬ曇帳の張られた
かぶさ めしゐ
空に、夜の黒幕が覆つては、盲ならぬ身の悲しさ。辛うじて認められてゐ
も
た一脈の山径も分らなくなるだらうと驚いて立ち上つたが、既うそれは遅
お
かつた。一歩々々谷に下り林に入るのであるから暗いとも暗い。さて斯う
なると今迄は何とも思はなかつた金剛杖が、何よりも頼もしくなつた。極
も つもり そし だま
道息子を有つた了見で、譏らうが、瞞そうが、縦令殺しに来るとしても悦
どんな ゑ ゑ
んで死んで遣らうと、怎麼厄介をかけに来やうとも、会も会知れぬ難事を
担ぎ出しても、天与の公案と心得て、根こんぞ面倒を見て遣つても、人間
あいし
といふものは一寸した感情の行違ひで直ぐと離れる。無論それは愛子に対
たくま あい
する悲母の態度と等しく、畢竟自己の愛欲を逞うしたのに過ぎぬので、対
て た ね
者に取つてはそれが結局不幸の種子となつてゐるのかも知れない。否、知
つまづ きづゝ
れないどころの騒ぎぢやない。僕は多くの人を躓かせてゐる。傷けてゐる。
そこ
害ねて居るのだ。害を加へて置きながら恩を施したかの如うに思ひ込める
無意識的罪悪、謂はゞ徹底的大罪悪の為に、此儘墓にせられるのかも知れ
じんかう た ひ
ない。然し僕としては、沈香もけず屁も放れぬ僕としては、却てそれが
幸福だ。思へば此の探墓行は自ら覚らずして自ら営んだ自己の葬式であつ
たのだ。全体僕の如うな人間は生まれて来なかつた方が可かつたのである。
のが あこがれ
而も自然に反逆した器械生活より遁れて自然に適応した真純生活に憧憬れ
なげう おだく
ながら一切を抛つて山に遁れ全地を滅亡させる念力も無ければ都会の悪濁
いだ
に浸り込んで俗を抱いて心中する程の勇気も無く、徒らに自他両面の罪悪
に想到して無益な煩悶を重ね、生命の濫費を事としてゐる我身を顧みる時、
わがわれ
如何に厚顔無恥の僕と雖も、我吾を憚らずにはられない。それにしても石
こそ な ぐ
に削げて傷けたり樹を擲打つて損ねたりして、酷使虐待してゐた此の金剛
きは
杖は、進退谷まつた僕をも捨てず、唯一無二の味方となつて呉れてゐる。
僕は斯く思ふと心の底から感謝の念が燃え立つて来る。そして金剛杖を撫
くだ や とほ
でゝやりたくなつた。四五丁を降つて漸つと左右に貫つた山径へ辿りつい
こく やみ
た時には天地は黒団々の暗で一寸先も見えなくなつた。一足踏みかぶれば、
こわ/゛\
底知れない谷底に転げ落ちるので、そろりそりと覚束なくも恐々足を運ん
むかふ
でゐると、一点の怪光が遥か対方から人魂の如うに飛んで来る、凝視する
ひ
と刀を腰に差した大男が手にせる灯であるらしい。それが僕に近づく程速
さなが こやつ
力を早めて、宛ら韋駄天かと思はれる。此奴テツキリ山賊に相違無いと、
かたはら うしろ かく
傍 の大樹の後へ身を匿した僕が、山賊が今し大樹の前に近づかんとする
刹那、恐怖の余り大喝一声、
『コリヤ!』
へ た
と叫んで躍り出ると、山賊は忽ち其処へ平太張つたと同時に、怪火はパ
ツタリ消えちやつた。
『南無阿弥陀仏々々々々々々』
ふる しはがれ
と唱ふる慄え声は老人の皺嗄声である。
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