こちら あちら
外人村の戸数は七十五戸あると云ふが、此崖に一戸、彼山に一戸と、離
ど は
れ/゛\の平屋建で、烈風を防ぐ為とて土坡を築いて折角の見晴しを遮り、
グラウンドを拵へる為にとてあたら樹木どころか草までも抜き取つてゐる
しよう
が、兎に角、地の利と勝を占めた別天地で、神戸、横浜などの居留地に見
られぬ、かくれたる欧米の気分が漂うてゐたのが、世界大戦以来、本国へ
還つて了つたものも多く、今では大半日本人の住宅となつてゐると聞いて、
やかま
僕の幼児内地雑居論の喧しかつた明治の中葉時代に於ける国民の対外思想
が、何れほど幼稚であつたかを語り聞かせると、両君は腹を抱えて笑つた。
斯くて三人は近くの茶店に宿を取つた。翌朝起き出でゝ山の端から双眼
へうべう むかふ けむり かゞなふ
鏡で西南を眺めると、神戸兵庫は標渺たる海の対方に烟の如う。僂れば三
ま ち
十年の昔であるが、僕の居つた当時の神戸はまだ幼稚な市街であつた。居
ふるぼ
留地、栄町、海岸其他、謂はゞ当時の外人村を除くの外は古呆けた市街で
すゝ
あつた。煤けた中に木や紙の与ふる温かな柔かな気分も味はれたが、何と
ど
それが怎うだらう、石造、煉瓦造、コンクリート、ペンキ塗りの洋風建築
トタン
や、バラツク普請、亞鉛屋根などが、古調な日本建を圧倒して、今は昔の
神戸ぢやない、一漁村の小野浜や並木の中の相生村の昔から伝はつてゐた
真純素朴さは愚かな事、西国三十三州の米権を握つてゐたと云ふ兵庫の昔
かたぎ あはたゞ
気質も、殖民地気質、流浪民根情に埋漏れて、たゞもうイヤに慌しく、薄
気味悪い、何だか噴火山頂に鬼女のダンスでも見てゐるやうな心地がする。
さうじやう
湊川近くの林間の六角堂が湊川神社と云ふ熱騒場と化し、深閑たりし生田
ざつとう
の森が生き馬の目抜きの雑閙地と変つて、如何な古跡も歴史的情緒と共に
なくな
葬り、文雅も趣致も自然の寂味と共に根絶つた。謂はゞ日本の上海である。
石炭の上に火輪を轟かす北九州の一角を除いては、キヤビタリストを手古
摺らせるプロレタリストの本場である。小野小町を偲ばせてゐた深艸道な
もろとも
ど、清盛が栄華の蹟諸共に絶無つた。改造か、改葬か、分列と闘争に忠な
ど
る現代に持つて来いの改造市街、嘗ては伊藤公の銅像を市中引廻しの上糞
つぼ い へ
壺へ投込み、再昨秋は寵商の店舗と共に豪奢の鼻柱を挫き、先頃又デカい
へこ ことはざ
造船所を凹まして飛沫を全国に波及した。「兄貴や神戸の牛殺し」なる諺
が「父は長柄の人柱」てふ童謡に取つて代るに不思議があらうか。僕は神
戸の現状を見て三十年前を顧ると、死んで地獄へ生れ代つて前世の夢を見
てる如うな気がしてならない。
あか
とは云ふものゝ昼猶黒き石炭から夜尚明きダイヤモンドの出る如うに、
ゆたか
多恨の美人、多情の英雄と結び付いた詩的情緒の豊なる由緒ある都を化し
つ ゝ
て、不潔と犯罪と偽善を包容む牢獄と変じ、古来の英雄が弱者を外的に暴
あぢのもと
圧したのとは異つて、人間を内的に細分して其本質を搾奪し、もと/\喜
おもひ
びであつた筈の労働かの苦痛あらしむる工場と変ずる、器械将軍の跳梁す
る科学大明神の跋扈地たる斯うした利己的な、資本主義的産業万能の中心
パ ン もと
地帯に、却つて麺麭の外の麺麭即ち正義や愛や讃仰の素たる霊の光が、赫
灼として輝き出づるのではあるまいか。
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