Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.10.3

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『最後のマッチ』(抄)
その77

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

九三 涙の光(1)

管理人註
  

 『併し、復活の前には亡びが無くてはならないではないか。真の光明は     はて                 したゝ       はて  無明の極に輝くものだ。ポーロが羅馬の獄中に認めた書翰は地の果にま  で読まれたし、言を立てんが為に、士大夫の最も屈辱とする腐刑を受け                   かうくわつ           りつげん  て、奴隷と雖も引決すべきを尚且隠忍苟活したればこそ、司馬遷の立言                          ちんざん  も、天下を照明することが能きたのだ。崋山が獄中から椿山に送つた消                    そ れ            いのち  息、ペエトオブエンがテレサに献げた手紙の如うに唯一人に宛てた生命  をかけて、尽きぬ涙の暗室に窓漏る星の光りに認められた文で無いと、            そらごと  た わ け ごと  言葉でないと、寝言、空言、多話怪言ではないか。』               あいて  『然し、私は真実をいふほど対者に悪解されるし、さりとて言はねば誤     のが  解から脱れることが能きぬと云ふ言ふにいはれぬ破目に陥つて居るので  す。』                        ぜんぢやう  斯う曰つて、端坐して黙祷に耽つた。僕が黙つて禅定に入つてゐるから             ツテ バ ゼラン ンデ ヲ チ スルナリ でもあらう。易の所謂「有言不信尚口乃窮也」で、言へば殺され、言は ねば救はれない。と云つた如うなヂレンマに、悶えてゐるらしきM君の姿                 うちら が、何だか仏像の如うな感がして、窟内は崇厳と凄愴に彩られた。死人の 如うに身動きもせねば物も言はなかつたY君が煙草を吸はんとてマツチを     かたはら くぼみ  いしぼとけ  た         摺ると、傍の凹所に石仏が佇つてゐるのが目に触いた。熟視すると一光三 尊の弥陀である。然し、同じ一光三尊でも、善光寺如来は支那の亡命者が         えん ぶ だ 念持仏で、寸八の闇浮檀金像とかで、幾重かの厨子に入つてゐるが、此処                       したゝ のは粗朴な石像で身長五尺もあるだらう。それに強か塵埃を浴びたまうて、 蜘蛛の巣にとぢこめられ玉ふ。「日本最初の渡来仏は金銅の裸体仏(誕生                仏)で次の弥勒の石像であると伝ふが、前者は支那、朝鮮を透過した印度 仏で、後者は西域、支那を透過した仏教像であると思はれる。併し、三度 目に輸入されたと伝ふ善光寺如来は仏教を透過した基督像と云つても可い と思ふのである。それは弥陀本願の思想は中央亜細亜に発達した易理の詩        ギリシヤ            ペルシヤ 化されたので、希臘に流れて易は神話と化り、波斯に入つた易は拝火教と                  ユダヤ 化り、更に印度に伝つて印度教と化り、猶太に入りて猶太教と化つたのだ。       おしへ   いづみ      アデンス             か び 而もナザレに宗教の清泉と湧き上り、雅典に美しき芸術の花と薫り、加毘 らじやうり   まこと   ひかり  ひらめ          羅城裡に真理の光明と閃いたが、善光寺如来は爾うした宗教、芸術、哲学 の綜合され陶鋳され精錬された理想の像であるからだ。僕は斯うした意味 から基督教の、仏教のと、何等信仰の本質と交渉の無い形式に捉はれて虚 偽と知らざる虚偽、偶像と気付かざる偶像に縛られてゐる或る男に、善光                   寺如来は其の実基督像であることを諷言つてやつたことがある。スルト其  のち の後、ものゝ半月ばかり経つてから、其の男は血相変へて遣つて来て、              『君は人を欺したな。怪しからぬ。』                       ふるは  と怒鳴るのであつた。そして昂奮の余りに身を慄して、後の文句を継ぎ             へりくだ 得ないいぢらしさに、僕は謙つて来て、          あやま  『悪い事があれば謝罪るから、落着いて仔細を語るやうにと、注意した。  さて聞いて見ると、イヤハヤ驚いた。其の男は御苦労千万にも、僕の一  ごん  ふうゆ            わざ/\  言の諷喩を真に受けて、態々信州くんだりまで、仏像を見に行つたとい  ふのであつた。秘仏だから見せられぬと云ふのを、さてこそ聞いた通り           そ れ  の基督像だから、其故で見せぬものと早合点して、手摺大望をして種々  運動の結果、漸つと見せて貰つたが、矢張り本尊は阿弥陀の一光三尊如          あき                       来であつたので、呆れて物が言へなかつたと云ふことである。ああ已み                              じやうだん  なん/\詩人に非ざれば詩を献ずることなかれとか、迂ツ濶、串戯を言  つた為に寝首を掻かけるやうな物騒な世の中、信仰の対象を、単に仏像  の形式に問うて、敢て自家信心の真偽深浅を反省しやうとせぬが当世で         い つ  あるらしい。何日やらも、或る日宗僧が日蓮が地下に冷汗を流してゐる  とも知らず、晩年身延に入山して懺悔につとめてゐた若気の失策を、日  蓮の真生命なるかの如くに妄信して、訳も無く余宗、殊に念仏を罵つて            さ   い                   ふと  已まぬから、「君は爾う叫うけれども、日蓮は寸八の弥陀像を、不絶懐  ころ  中にしのばせて念持仏としてゐたのだ。現に其像が身延山の奥の院に奥  深く祀り込められてゐるのぢやないか。それに横に読めば六字の名号が かしら                      ゆゐもん  頭字になる弥陀の十八願文の隠括された皆帰妙法の遺文をも秘蔵して居      ると伝ふではないか。」と、日蓮が帰依奉信した寿量本仏は、文句を通                            なゝめ  じて真正面から観た弥陀仏であり、弥陀仏は文句を離れて斜に眺めた寿          こゝろ  さ と  量本仏であるとの意を諷諭してやると、僧は何う解したものか憤々とし  て席を蹴つて駆け出したが、其の後ろ影が、浄土真宗の宗義の中心を絶            とんじやう  対自力と叫んだ能登の頓成を異安心と排撃した当時の役僧を聯想させた  ことが思ひ浮んだよ。』           ふたり  斯うした意味の話をYMにして聞かせると、     『爾う承はると、此の石仏の三尊が何かしら顔回左に侍り、子貢右に侍  つた孔子の像にも見えますね。』  と、Y君はお出でなさる。


章名は目次よる
(本文にはなし)


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