あづまかいふ こんな
これはツイ近頃の事であるが、御影常順寺住職東海夫氏は恁麼事を話し
て呉れた。
い ちよつと
『私の亡友に高島小十郎と名ふ一寸風変りの老人があつた。晩年書を志
ぎ ひとかど
して、所謂八十の手習ひを初めたが、技は年々に進んで一廉の能筆とな
つたのに、本人には幾ら書いても物足らぬ心地がするので、書いては破
り棄て、書いては破り棄て、死ぬる間際まで、書いたものをスツカリ焼
き棄てた人である。此の老人が曾て六甲山中で白髪童顔の一異人に遇つ
・・・・
た。年を訊けば百五歳とか、大塩中斎の門人なにがしだと応へたさうで
ある。勿論高島老人は其の名を言つてゐたが、惜しいことに忘れて了つ
た。何でも歴史の上では処刑されたことになつてゐるので、世に歴史と
あて い
いふものほど当にならぬものはない。などゝも老人は語つてゐた云々』
僕は斯の話を聞いた其時の直感は、その異人こそ中斎其人ではなかつた
こ れ おも
かと思はしめた。猶、此話に就いて憶い出したのは、鉱毒事件で有名な故
ぢきわ
田中正三翁が、矢張り六甲山中で、中斎に遇つた知人某に就きての直話で
い そ れ
ある。僕が上州へ旅つた時、其話を聞いたのは、今から二十余年前である
が、その正三翁の実弟某が当時中斎の隠れ家三好屋の跡だといふ靭中通三
丁目南側、今の靭尋常小学校前を一丁半程東へ入つた、見越の松が往来を
覗く塀付の家に住んでゐたのも、正三翁と中斎との間に何か因縁があつた
やうに思はれる。或は正三翁の知人某といふのは、御影の高島老人の事な
のではあるまいか。
それに六甲山中には人が十四五人も這入れるやうな洞窟が二ケ所もある
みち
と云ふ事は僕が幼時、母に伴はれて有馬へ行つた途すがら、六甲越しの駕
籠舁から聞いたところである。
中斎一味の者が、其処に遁竄してゐたか否かは疑問としても、其処に幾
しば/\
多の人が住んでゐた形跡のあつたことは、爾来数々/\耳にした。中斎一
行も或は斯の山に入り、天寿を全ふしたものか、それとも赤坂落城後の楠
よ
公が、正慶元年の秋、忽然千早城頭に菊水の旗を翻す一年余りの間の如う
おもんばか
に、捲土重来の壮図に肝胆を砕いてみたが、到底事の為すべからざるを慮
つて、一同自殺したものか。果して然らば高島老人の邂逅したと云ふ異人
こそ、彼の赤穂義士に対する天野屋利兵衛、清十郎に対するお夏のそれの
よ ながら
如うに、何かの動機から独り残存へて、恩師先輩の霊を弔へるものではな
ラビリンス さまよ
かつたかなど、想像は想像を生んで果し無き迷宮に彷徨ふた揚句、僕は終
みづか
に身ら六甲山中を踏破し、草の根を分けても其の異人の跡をつき止めたい
と思つたが、機縁の熟せざるものがあつたのか、不思議と現実の繋縛に幾
あこがれ
度か探検の壮挙を妨げられて、徒らに此処三四年間を一種の狂躁的憧憬の
うち
裡に過して了つたのである。
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