おもひ
斯う考へて来ると、想は電光の如く幾万年の過去に馳せ、人生の始端を
かん
成すアダムと、人生の終端に立つてゐる僕と遥に相対して、其間に起つた
中間事象、即ち人類一切の活動、国家の興亡、文明の進歩、結婚と戦争と、
英雄と美人と、疾病と死と而して出生と、その間に流された喜怒哀楽の何々、
生存の競争、成金と貧窮、帝王と奴隷世々に亘る歓楽のオーケストラ、政
いう
治と工業と宗教のあらゆる現象等を一目に見渡して、その総計は是れ有か、
是れ空かと問答して見たが、一向に要領を得ない。彼には子孫であり、僕
には祖先である全人類の如是活動と其の意義が、如何なるものである
つ
としても、其の一切は今や僕の一身によつて「けり」が決くのであると思
へば、僕は急に「人類大の責任」の重荷に圧せられた心地になつたが、し
あ せ もが わずら
かし今更何と焦躁つても、何ういても、僕は畢竟僕である。思ひ煩ふこ
みのたけ ぶ
とによりて身長一分延ばす訳にも行かぬ。この儘にして、有りの儘にして、
大人しく凍死して天命に服するの外はあるまいものと、観念したのであつ
み つ
た。アダムは何か意味あり気な顔をして僕を凝視める其の顔が僕を警戒し
てゐるやうにも見え、又叱つてゐるやうにも、慰めてゐるやうにも、憐ん
でゐるやうにも、さま/゛\に見えるので、僕の心の平静は又あやしく掻
き乱された。見まじとして眼を背くれば、そむけた方にアダムの、意味あ
り気な顔が現れて、何事かの解決を迫るのであつた。右に向いても、左に
うしろ つぶ
向いても、上にも下にも、前にも後にも、終には目を瞑つてゐても、アダ
ムの顔は限り無く僕を追窮して已まぬ。加速度に混乱を増して来た僕の心
理状態は、さながら千八百則の公案を、一時に透断せよと強要されてゐる
かの如う。斯うなつたら、もう堪らぬ、本当に気が狂ふのだと思ふた刹那、
むかふ
忽ち五体が大地に投げ付けられた。山が動いたからである。此の時、対方
くわえん すさま
の谷から噴き出す火の柱は天を焦して凄じとも凄じ、見る、見る、火
な な な な
の柱は二つに裂る。三つに分る。四つに割る。八つに散る。距離は遠いが
せま す く
火の粉がだん/\近く僕の身に逼つて来る。起たうとしたが、身体が萎縮
び く で
んで微動とも能きない。逃げやうにも八方悉く火である。斯く猛烈なる自
きうす
然の威力に圧倒されては万事休焉、声さへ立て得ぬ阿鼻地獄、忽ち聞く死
そのものに由つて絞り出されたやうな大叫喚、是れ我の声か、我の声と聞
く時、何とも言へぬ大苦叫大悲鳴であるが、神の声と聞く時、正しく慈悲
きうじやう しん/゛\
救拯の愛音である。あゝ正に極苦極痛のドン底に抱擁する神人の結婚か。
うち
一念茲に達して、天国此土を去ること遠からず、大苦の中、大楽存し、地
しう
獄の破れて浄土出現するの妙理は忽ち四周の火柱を吹き消し、山嶽の鳴動
たなび りうりやう
を静め、何時の間にやら蓮華花咲き香風薫じ、紫雲靉靆きて妙楽嚠喨たる
浄土の光景が展開してゐる。
『あ、僕はいよ/\死んで極楽に来たのだな。』
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