復活した基督の姿を望んで海に駆け込んだといふペテロのやうに、僕は
ばくしん
夢宙になつて墓の方へ驀進した。勿論其の間を遮る稠密なる雑木を飛び越
くゞ ぬ こ ころ い
え潜り脱け倒けつ転げつして此処と思はれる地点に達つて見ると、これは
たに はさ むかふ
したり!墓は深い/\谿を夾んだ対方の崖に佇つてゐる。一同はガツカリ
むちう
したが、疲れた足に鞭ちつゝ大廻りをして対方の崖へ行つて見ると、何う
さつき どちら それ
なつたものか先刻見た、慥に見た墓は無い。何方を振向いて見ても墓らし
いものゝ影すら無いのである。
イリユージヨン おく
それとも此れは僕の 幻覚 であつたのであらうか、後れ馳せにやつて来
ふたり
たMYも確かに大きな墓の聳え立つてゐるのを見たと云ふ。三人が三人共、
きつと ど
然うした幻覚を見やう筈はないから、必度墓があるに相違ないが、何うい
ふものか消えて仕舞つたので致し方がない。それに船坂六甲と甲山とに挟
どちら
まれた深林地帯だといふことだが、甲山が何方やら、船坂六甲も何時の間
ち さつぱ あたり
にか、消え去やつて方角が薩張り分らず、四辺は鬼々妖気に充ちて居る。
どちら うち
何方へ進んだら安全地帯に出ることが能きるのやら三人の中、磁石を持つ
うしな
てゐたのは僕ばかりであるが、それすら途中で喪つたので、全く途方に暮
れて了つた。
『ナーニ石や木の苔の生えた工合を見れば方角は分ります。』
ざふき み つ
M君は慰め顔で四辺の樹木を凝視めてゐたが、
こちら
『先刻の墓は此方ですよ。』
何か発見したかのやうな確かな語調で、斯う言つて案内して呉れるので、
ふたり つ
僕Yは黙々として跟いて行くと、懸崖の端に行き詰つた。
更にM君が叫んだので左手を見ると、如何にも先刻見た大きな墓が聳え
てゐる。可笑しい具合だとは思ひながらも、一同又ぞろ方向を転じ、又々
雑木を潜り脱けて漸つと其の地点に行つて見ると、不思議にも消えて仕舞
ふ。
まんざん
『満山の樹木巌石悉く中斎の墓ではあるまいか。』
堪らず僕は絶叫した。
『私等も此の儘墓に化つて了ひさうですなあ。』
なにもの つま
『妖怪かに魅まれてゐるのではありますまいか。墓、墓、墓と一生懸命
たぐゐ な ぶ
に探して居る私等の心の隙に乗じて、必度孤狸の類が愚弄つてるのです
よ。』
と かく
『左に右怪しいね。二度までも墓を見て、行つて見れど消えて了ふのだ
ど う
から、キツト幻覚に違ひないね。お互に如何かしてゐるよ。それにして
あ
も、彼の虎公や巳のやんが墓を見たと云ふのも、やつぱりこんな事であ
つたかも知れないね。』
さ
『爾うですね、彼等の見た墓も背の高い大きな墓だつたと云ひましたな、
からと
然しあれは唐櫃六甲でしやう。』
こ ゝ ら
『唐櫃にしろ、船坂にしろ、甲山にしろ、兎に角、此処等辺には必度祭
わ ざ
られざるの鬼が有るのだよ、或はその鬼の為す作為かも知れないよ。其
鬼の何者であるかゞ分つたら、僕等は早速今、幻覚に見た通りの墓を建
てゝ供養して遣りたいね。』
『其の祭られざる鬼こそ、中斎先生では無いでしやうか。』
『或は然うかも知れない。何れにしても、その霊を弔ふべく、これから
よ
お経でも誦まうぢやないか。』
『何経を誦みますかな。』
ひろ きよ
僕は合羽包みを披げて、小本の浄土三部経を取出し、石に踞して光明嘆
じゆ
徳章を誦した。誦し了つて三人声を合せて念仏唱名すること約三十分、こ
れで何となく気も落ちつき、墜落以来一種の鬼気が身に迫つてゐたことに
つ
気が注いた事ほど左様にサツパリした。
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