Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.10.12

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その85

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

九九 祭られざる鬼

管理人註
  

 復活した基督の姿を望んで海に駆け込んだといふペテロのやうに、僕は           ばくしん 夢宙になつて墓の方へ驀進した。勿論其の間を遮る稠密なる雑木を飛び越  くゞ  ぬ   こ    ころ               え潜り脱け倒けつ転げつして此処と思はれる地点に達つて見ると、これは           たに はさ    むかふ したり!墓は深い/\谿を夾んだ対方の崖に佇つてゐる。一同はガツカリ          むちう したが、疲れた足に鞭ちつゝ大廻りをして対方の崖へ行つて見ると、何う       さつき             どちら        それ なつたものか先刻見た、慥に見た墓は無い。何方を振向いて見ても墓らし いものゝ影すら無いのである。           イリユージヨン          おく  それとも此れは僕の 幻覚 であつたのであらうか、後れ馳せにやつて来  ふたり たMYも確かに大きな墓の聳え立つてゐるのを見たと云ふ。三人が三人共、                  きつと            然うした幻覚を見やう筈はないから、必度墓があるに相違ないが、何うい ふものか消えて仕舞つたので致し方がない。それに船坂六甲と甲山とに挟                    どちら まれた深林地帯だといふことだが、甲山が何方やら、船坂六甲も何時の間            さつぱ          あたり にか、消え去やつて方角が薩張り分らず、四辺は鬼々妖気に充ちて居る。 どちら                        うち 何方へ進んだら安全地帯に出ることが能きるのやら三人の中、磁石を持つ                      うしな てゐたのは僕ばかりであるが、それすら途中で喪つたので、全く途方に暮 れて了つた。  『ナーニ石や木の苔の生えた工合を見れば方角は分ります。』            ざふき   み つ  M君は慰め顔で四辺の樹木を凝視めてゐたが、        こちら  『先刻の墓は此方ですよ。』  何か発見したかのやうな確かな語調で、斯う言つて案内して呉れるので、 ふたり       僕Yは黙々として跟いて行くと、懸崖の端に行き詰つた。  更にM君が叫んだので左手を見ると、如何にも先刻見た大きな墓が聳え てゐる。可笑しい具合だとは思ひながらも、一同又ぞろ方向を転じ、又々 雑木を潜り脱けて漸つと其の地点に行つて見ると、不思議にも消えて仕舞 ふ。   まんざん  『満山の樹木巌石悉く中斎の墓ではあるまいか。』  堪らず僕は絶叫した。  『私等も此の儘墓に化つて了ひさうですなあ。』   なにもの   つま  『妖怪かに魅まれてゐるのではありますまいか。墓、墓、墓と一生懸命                        たぐゐ  な ぶ  に探して居る私等の心の隙に乗じて、必度孤狸の類が愚弄つてるのです  よ。』    と  かく  『左に右怪しいね。二度までも墓を見て、行つて見れど消えて了ふのだ                     ど う  から、キツト幻覚に違ひないね。お互に如何かしてゐるよ。それにして      も、彼の虎公や巳のやんが墓を見たと云ふのも、やつぱりこんな事であ  つたかも知れないね。』     『爾うですね、彼等の見た墓も背の高い大きな墓だつたと云ひましたな、       からと  然しあれは唐櫃六甲でしやう。』                          こ ゝ ら  『唐櫃にしろ、船坂にしろ、甲山にしろ、兎に角、此処等辺には必度祭                        わ ざ  られざるの鬼が有るのだよ、或はその鬼の為す作為かも知れないよ。其  鬼の何者であるかゞ分つたら、僕等は早速今、幻覚に見た通りの墓を建  てゝ供養して遣りたいね。』  『其の祭られざる鬼こそ、中斎先生では無いでしやうか。』  『或は然うかも知れない。何れにしても、その霊を弔ふべく、これから        お経でも誦まうぢやないか。』  『何経を誦みますかな。』         ひろ                  きよ  僕は合羽包みを披げて、小本の浄土三部経を取出し、石に踞して光明嘆    じゆ 徳章を誦した。誦し了つて三人声を合せて念仏唱名すること約三十分、こ れで何となく気も落ちつき、墜落以来一種の鬼気が身に迫つてゐたことに    気が注いた事ほど左様にサツパリした。

   
 


『最後のマッチ』(抄)目次/その84/その86

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ