Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.10.15

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『最後のマッチ』(抄)
その88

岡田播陽(1873-1946)

好尚会出版部 1922

◇禁転載◇

一〇一 自己の葬式(1)

管理人註
  

 『もう墓探しはこれで打止めと仕様ぢやありませんか。』      かたまり  負惜みの凝塊かの如うに思つて居たY君が、再度の非鳴には驚かされる。 山里に生れて山里に育つた流石のM君も、いよ/\ゲツソリしたらしく、  『現実に中斎先生の墓を発見し得ないのは甚だ残念ですが、只今幻覚に         映じた墓が怎うも私には中斎先生の霊ではないかと思はれて仕様があり  ません。』                    あたり  と、言ひゝつ退却の身構へをしながら、四辺を見廻して、只管帰路を探 し求むるらしいY君を顧みた。                  『私も爾ういふ気がしましたよ。而して我々は、今それを船坂と甲山の             もの  間に見、虎公等は、同じ墓を唐櫃六甲の森林中に見たとすれば、其処に  霊の遍在といふことが信ぜられますね。して見ると特に記念すべき墓標             は有つても無くても可いでせう。六甲と甲山全体を以て中斎塚と見たら       しかみ  可い。否、然見るべきだ、と私は始めて悟りました。随つて私は只今限         はうき                     にふぢやうち  り墓探しの志を抛棄します。嘗て私は高野山に登つた時、大師の入定地          あちら こちら  を尋ねましたが、彼方此方と都合七ケ所もあつたので、その悉くが嘘で                   そ れ  あると覚つたと共に、高野山全体が入定地であると思つたことでした。     じよくり      とそつじやう/\           完全に褥裡に病死を遂げ兜率上生を遺弟に告げたと伝ふ弘法を、正しく                 入定せしものと信徒の胸に映ずることは、其の儘にして墓より蘇りて昇  天したと伝はれて居るキリストが、完全に棺と共に腐朽した反証であつ                                 あさ  て、又三好屋焼死説を絶対に否定し得ない我等をして、墓を此の山に漁  らしめし霊の手引きではないでせうか。兎に角我々は十二分に満足して、  感謝して、帰路に就いて可いと思ひます。』                            なし  斯う言つたY君ばかりでなく、M君の心にも、実際目的を成遂げたとい                      そ れ ふ満足のあることは、明敏なる彼等の眼色が其事を語つてゐる。併し、僕        ゆ る        たが  ゆる は今茲で気を弛緩ませては箍の弛んだ水桶から水の漏れる如うに、元気忽 ち沮喪して、疲労の為に動かれ無くなりはしなからうかと案じられるので、  『イヤ右にも左にも中斎の墓は動いて居る。否、お互ひの内に中斎は復         バイブル            なか           ぬ し  活して居るさ。聖書に「マリヤよ、我に触るゝ勿れ」と復活の耶蘇が言                       きよくせき  つたとあるのも、乱現の復活は、肉眼の世界に跼蹐して居ては分らない  との意味なのだからね。然し、宇宙に遍満し玉ふ全能の神なればこそ、          ごへい            し み  神殿の扉の内に、御幣ともならさせ給ふのだ。蠧魚臭い黄巻赤軸中に捲            がんだう       と ざ  込まれたり、古呆けた龕堂内に蜘蛛の巣に閉鎖されもしたまうてこそ、  へんいつさいしよ  遍一切処であり、不可思議光仏ではないか。随所に古人と面々相対し得              つ      うづも  るの人は、絶えて人目に触かない埋れた墓石をも発見し得るの人であら           かう  ねばならぬ。元来此行たるや、神の教会であり仏の学校たる山上、否、                    したり こ ん   しんく  せんでき  真の洗心洞塾とも称ふべき山上の霊気に浸潤没溺で心垢を洗滌したいと  いふ念願から出発してもゐるのだよ。禽獣に還り神に帰る、所謂超人即               まつせ  末人、否、超世の悲願こそ、末世の救ひであるとの信仰からではないか。     はふに  親鸞の法爾、日蓮の妙法、中斎の所謂太虚に帰して俗塵は穢されたる本    しやうじやうしん  源の清浄心を回復したい為でもあつたのだ。謂はゞ耶蘇が荒野の彷徨。                     ・・       ・・  菩提樹下に於ける釈迦の端座ではないか。あてにならぬ伝説をあてにし     つか                て雲を攫むやうな事を真面目に行るのは、彼の虹の脚には金の茶釜を埋                  くは  かつ  まつてゐると伝ふ話を聞いて正直に鋤を担いで掘りに出かけたといふお  伽噺中のフールにも似てゐると、自分ながら可笑しく思はぬこともない。  自分で可笑しく思ふ位であるから、他人の目からは定めし気狂ひ沙汰と                 ど こ までも  見えるに相違あるまいが、僕は徹頭徹尾真剣なのだ。イヤ真剣と覚らぬ             いのち     ぎやう    しんじん  真剣、謂はずと知れた生命がけの行なのだ。真人は狂に近しと謂ふが、  よしや  縦令凡俗の目に狂人と映じても、神の目に真人であれば可い。風雪、寒  気は愚かなこと、疲労、昏倒。飢餓、凍傷その外如何なる悪魔の誘惑に             しか  も打勝つて、怎うでも中斎墓を確とつきとめなくちやならないよ。』
































遍一切処
毘盧遮那、
仏の徳の全世界に
及ぶこと


『最後のマッチ』(抄)目次/その87/その89

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ