ふたり な が
MYは覚えず僕の顔を凝視めた。
『勿論来しなに爾うした意識は無かつたが、何時の程にか死神に取憑か
れて了つたらしいのだ。然しまだ人生の花形役者であり現代社会の戦士
よ も のぞみ
たる君等は片時も早く帰る方が可からうが、既う世に希望を有たない僕
かゝはり
は現世と何の関係もありやしない。だがね本当の事をいへば、人間の仕
しに
事は死支度より外には無い筈だ。而も人は真の孤独に陥つて、初めて世
むすびつ カルマ ほか
間と結合くのではないか。勿論苦を慰めるものは苦であり、業を他にし
で と も
て業を抜くことが能きない如く、孤独の侶伴は孤独であり、自己は自己
な ら
によらねば救はれないがね。寧楽を去つた教信、勝尾山に遁れた善仲善
算、那智に入つた文覚、笠置に潜んだ貞慶、叡山に登つた法、親、日、
道はいはずもがな。遠くはヒラの山中に入つたマホメツト、近くはヤス
さうろ ぬけだ
ヤナポリヤナの草廬を脱出したトルストイ、もと現に今お互が其の後を
しの
追へる中斎先生が六甲に潜ばれたのも、要するに、死の準備ではなかつ
しごふ ゐほん さと
たか。無常迅速、生死事大と覚り、往生之業、念仏為本と信つたからで
ラツパ
はなかつたか。最後の審判の喇叭を聞きつゝあつたからではなかつたか。
死か、狂かの二つに一つを選ばねばならなかつたからではなかつたか。
否定の外に肯定は無い。己を殺すの外に己れを愛する道は無い。「今我
す うち
肉体に在りて生くるは我が為に己れを捐てし者、即ち神の子の信仰の中
い わが
に生くるなり」とボーロも叫つて居る。「我はたゞ吾を愛す」とは、一
げん
切を捨てゝ深林に入つた古聖の言であるが、真に己れを愛することは、
あ か
その儘にして一切衆生の済度ではないか。人は己れを全然の他人として
だい
見かぎり捨てる程の、大なる利己心によつて永遠に生くるのではないか。
ひと うち
己れは他の中に存し、他は自己の内部に住まへるのではないか。』
うん すうん い
MYはとも須とも吐はない。併し僕も斯うはいつては居るが、若し
どんな
も今、誰かが殺しにかゝつなら、怎麼醜態を見はすかわかりやしないのだ。
こんなこと い
尤も僕が斯麼言を吐ふのは、僕自身が言つてるのか、何物かに言はされて
はつきり み な おちつ
ゐるのか、我身ながら明瞭しないのである。といつて単に一同の心が沈着
こ ラビリンス のが このあいだうち
かないと、斯の迷宮から遁れ得られないとの心配ばかりでも無い。此間中
からの冒険に事無かりしに油断して、途方途轍も無い謂はゞ魔の国へ踏込
したゝ
んで居るのである。僕は強か恐怖を感じても居るけれども、何故か又此の
とゞ
恐ろしき悪魔の住家に留まれるものならば、留まりたいと思うのだ。とい
しよせい みた
つて僕は「初筮に告ぐ再三すれば涜る」とは知りながら、不安に堪へられ
そつ ふたゝ
ぬまゝ密と更び易を断てて「履卦九五の変」を得たのに驚いても居るし。
ふ さだ たゞ あやふ かうじ
「履むことを夬む、貞しけれども獅オ」との爻辞に胆を冷しても居るので
ある。「汝の運命は尽きたのである。最早努むる勿れ、神から見放されて
居るのである。ヂチパタしても所詮助かる見込はない」との悪魔の誘惑で
のが いと
あるとは思ひつゝも、斯の誘惑から脱れることの難きは、高山の頂から綸
なにゆゑ
を垂れて海底の針を通すよりも難きが如くに思はれるのは何故であらう?、
ほし まさ
大海を干上げて妙宝を得んとするにも勝つた僕の探墓熱も、斯うして誘惑
かな も と ど
には敵はない。しかし僕は最初から怎うならうと運命の命ずるまゝに随順
する覚悟を決めて居るのである。たゞ怎うにかしてMYを無事に帰らせね
いづ
ばならぬ。孰れもこれからの人間だ。人生の蕾である。此の世の初穂では
た ゐ や き も き
ないか。所が驚くまいことか、起ちつ居つして厄鬼盲鬼と気を揉んでゐた
い
M君、ドツカと大地に五体を据ゑて、意外なことを語ひ出した。
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