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ど つ い こんな と こ ろ
『イヤ怎うせ気狂ひ地味た僕等に跟随て斯様断末魔へまで来ることが能
きたのはよくせき心に悩みがあるからだよ。その内情は聞か無くとも、
うみ わ た
生くるか死ぬるかの瀬戸際を歩み、涙に化石を踏み血の湖を徒渉つて居
ど う けんがう
ることは解つて居たよ。如何だ両君!喧囂雑乱の巷を見かぎつて、斯う
じやうじやく
した静寂幽玄の神秘境に安住することにしては如何だ。濁悪なる近代文
つな みやうもん
化の為に、否、名利に鎖がれ、名聞利欲に鎖がれて、分裂の為の分裂と
ふ
闘争の為の闘争に狂ひ、空しく老け行く器械生活の為に表はれた霊性を、
せま
恢復への方向転換ではないか。「天国に到るの道は窄し」尊厳なる転換
せいしゆ
であるだけに、困難も一通りではないが、道徳を守するものは一時に
い あ
寂莫たり、権勢に依阿するものは万古に凄涼たりと、洪自誠も言つてゐ
よ
る。社会の最高層たる高僧聖者すら黄金の波につて了つてゐるではな
いか。何々禅師の二百四十七回忌を二百五十回忌、何々太子の千二百九
十九年忌を千三百年忌、何々大師の千百九十八回忌を千二百回忌、何々
左衛門の百九十九回忌を二百回忌と囃したてゝお祭騒ぎの法要を営む殊
勝なところにまで、さうした水害の余毒は及んでる如うだ。社会現象の
ぶち
一切が何だか風邪一つ引かない達者な人間を突然棺桶へ打込んで火葬若
しくは土葬を営むにも等しく感ぜられるではないか。悪人といはれてゐ
る人が、悪事を働くのを見るよりも、善人と云ひ且ついはれ、信仰家と
許し又されてゐる人が、神の名により仏の名によりて悪事をなすことが、
怎れだけ人生を悪化するか知れたものぢやない。田舎を都会製造の材料
と化し、貧者、弱者を、富者強者を肥す餌食と化するのと、畢竟さうし
たことが原因ではあるまいか。それに一切は機に生じ縁に成る。如何に
いき かうしよう おも
生苦しい物質生活の殻を破つて、自由の天地に翔したいと念つても機
縁に恵まれなければ達し得られるべくもないが、お互がゆくりなくも斯
め ば
く相携へて此処に来たことはお互の生命が永遠に向つて芽萌えるそも/\
あくそく めうもん さうが と
なのだ。日夜齪齷として、名聞利欲の為に爪牙を磨ぐことの他に、何物
をも見出し得ない濁悪なる巷に帰ることを見合はせて、此の儘此処に幽
棲しやうではないか。禁欲、祈祷、布施其の儘が、神の子であり、成仏
ほか あさ
であるとしても、獄屋の外に禁欲の場所を求め、病室以外に祈祷所を猟
よ そ もと
り、窮民窟を余所に見て布施の心を生ずる場所を索むるならば、斯うし
ところ
た幽谷より外には無い筈である。而もそれは禁欲と知らぬ禁欲、祈祷と
覚えぬ祈祷、布施と気付かぬ布施。即ち浄土と知らぬ浄土、天国と覚ら
ない天国、即ち是れ真の浄土、真の天国ではないか。これ即ちY君本来
の念願だと聞いてゐる生活の芸術化であり、M君もその最後の到達点と
して崇めて居るバンヤンに参徹するの一歩ではないか。勿論この寒さで
わらび ほ いのち
は蕨も食へまいが、百合根や朝鮮人参を掘ぜ繰つても生命はつなげさう
はぐ
ぢやないか。冷灰樹木を育み、枯木火を発するのだ。雪の下にも若草の
根は萌えて居る筈である。』
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依阿
へつらう
「道徳を・・・」
『菜根譚』の言葉
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