大阪府 1903 より
第三節 奉行。 第一款 大阪町奉行 附、船奉行并に代官。 大阪町奉行の起原詳ならず、或ひは天正十九年、徳川家康の関東に入る や、北條の臣和田与兵衛を大阪町奉行に任じ、兼ねて相州小田原地奉行を 勤せしめ、同時に山岡助兵衛をも奉行に任じ、東西両奉行として大阪一般 の市政と主管せしめ、時としては一名乃至三名たりしが、享保四年以隆、 二人と定め、以来慶応元年十二月に及ぶと、或ひはいふ、町奉行所の設立 年月は不詳にして、神田与兵衛、初めて任命せられ、尋いで山岡助兵衛、 一に岸助兵衛、之れに代はると、又或ひはいふ、元和五年二月、水野河内 守守信、初めて長崎奉行より東御番所を勤め、又同時に、島田越前守直村、 西御番所を勤め、禄高各千五百石、役料現米六百石を給せらると。 蓋、元和元年五月、城陥りて、徳川家康の有に帰し、内藤紀伊守信正来た り、松平忠明に代りて城代となるや、其の市政を行ふに、両奉行を以つて せしこと、種々の記録に依りて明らかなれば、奉行所の起は、即、元和五 年二月にして、水野及び島田の二氏を以つて、之れが嚆矢とするもの、信 に近きが如し。 当所の町奉行は、老中の支配にして、五百石以上の旗本を以つて任ぜら れ、各一千五百石高にして、他に御役料現米六百石宛あり、其の下に与力 三十騎、同心五十人宛を有せり。其の他、三郷に総年寄あり、在所に代官 おうしょう ありて、各其の政務を鞅掌し、而して其の支配地は、摂河泉播、及ぴ讃州 の塩飽島等にして、中に就き、摂津の西ノ宮、及び兵庫の二ケ所に、各勤 番所を設け、西ノ宮勤番所にば与力同心各一人宛、一ケ月交替、及び土着 の者三人を以つて勤番せしめ、兵庫勤番所は、船見番所にして土着二人を して船舶を見張らしめき。