Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.3.19

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その9

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

 是に於いて、家康、城墟を修理し、同年六月、松平下総守忠明を此れに 封じ、同五年七月、忠明を大和国郡山に徒すや、大阪城を以つて鎮府とな し、内藤紀伊守信正、松平勝政を遣はして、摂津以西を鎮せしむ、之れ即、 城代の嚆矢なり。                           じょうばん 又、京橋口、玉造口に二藩鎮を置き、城代に副せしめて、定番と称し、世 に之を三城代と云ふ。 同六年、衛騎二隊を置き、一隊は五十騎にして、世に百騎と称せられ、其     き か              おおばんがしら の将は旗下にして、之れを在番、また一に大番頭といひ、別に若干の旗本               かばん をして援護たらしめ、之れを加番と曰ふ。加番は山里、青屋口、中小屋、 雁木阪(以上みな城内)の四箇所に在りて、山里と青屋口との加番は、東 大番頭に属し、他の二加番は、西大番頭に属し、以つて全域の警衛を分掌 し、在番と共に毎歳八箇月交代を以つて、交互衛戍せしむ。 而して城代は、拾万石以下、幕府譜代の大名より任ぜられ、役知壱万石に して、京都所司代の格式なり。 又、定番は、一、二万石の大名より任ぜられ、役料三千俵にして、在番、 加番と共に老中の支配に属し、又、両定番の隷属に、与力三十騎、同心百 人宛あり、以つて常に城の内外を警戒せり。  此の歳、秀忠、西国の諸侯に課して、大いに修繕の役を起し、八箇年を 経て、寛永四年に至り竣功せり。  元来、城代は、大阪全般を支配するものなりと雖、其の市政に至りては、 両町奉行、船奉行、又其の在々所々に至りては、代官等の主管に属し、只、 幕府の法今、自己の命今、町奉行等の行政司法等に開する指令を下し、其 の他、主として城廓兵事等を主管したりき。是れに仍りて、定番付の与力 同心の如き、亦、決して町民の民刑事等に関することなく、只、城廓の肉 外を警衛するの外、道頓堀の芝居其の他、市民の群集する所に於いて、城 代附の衛士等の非行を取締るに過ぎざりき。  此の如くにして、慶応三年に至る二百五十八年間、徳川氏は、累代其の 制を革めざりしが、慶喜の大政を奉還し、退いて此の城に在り、明治元年、 伏見の役に戦利あらずして、江戸に遁れんとするや、火を放ちしかば、殿 閣倉庫みな烏有に帰し、昔日のものにして、現存せるは、僅に四門と数個 の櫓楼とのみ。夫れより同二年に至り、兵部者出張所を置き、同四年には、 大阪鎮台を置きて、第四軍管を統轄し、後、第四師団本営と改められき。 越えて同十八年、紀州旧藩の政庁を和歌山城墟より移し、之れを増築して、 以つて今日の観をなせり。 今、城代及び定番の氏名勤務年月を挙ぐれば、左の如し。  【城代、定番一覧表 略】


松尾美恵子「大坂加番の一年―「豊城加番手挫」より―


『大阪府誌 警察史』目次/その8/その10

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