Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.4.3

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その24

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

 又、寺院の法度は、古来各寺に就きて定められたりしが、寛文五年に至       あまね りて、初めて汎く天台、浄土、真言、禅、時宗、日蓮、一向の諸宗寺院に 及ぼし、百殊の執行は、私領及び代官より寺社奉行へ問合せ、并に勘定奉 行へ伺候するものにして、事項頗繁雑なり。然れども、要は新規を計らず、 華美を禁じ、又仏祖の制義を乱さゞるにあり。  正徳元年五月、諸国浦々に高札を立て、公私を問はず、廻船の遭難に際 しては、之れを救助すべし。此の時に当り、浮荷物は二十分一、沈荷物は 十分一、川船荷物は二十分一乃至三十分一を、取扱者に賞与すと。後寛政 七年に至り、総べて拾揚高十分一の相当代価を、救護者に与ふ、若、船頭                 ようしゅ にして、浦々の者と共謀し、荷物を窈取せしものは、長時日を経たる後と 雖、重刑に処すと令せり。  正徳五年、令して云はく、正当の訴訟をなす者といへども、奉行役人、 又其の末々に音曲を贈りしものは、此の訴訟を却下し、且、重刑に処すと。 享保七年、江戸に於いて浪人山名左内と称する者、葵御免縫の衣類を着用 したりしを以つて、死刑に処せられ、同八年、一般に令して、御用、及び 尾張紀州水戸の三家、其の他御免の大名の外、向後、着類諸器具に至る迄、 一切これを用ふべからずと。 貧困にして、其の子を養育し難き場合には、奉公人は其の主人に、御料の 者は代官に、私領の者は名主若くは五人組へ申出で、是等また養育するの 法なき時は、其の土地に於いて養育すべし。若、捨子したるものは処刑す と。  延享元年、令して云はく、逆罪のもの、邪曲にして人を殺しゝもの、火 附、徒党をなして人家へ押入りしもの、追剥、并に人家へ忍び入り窃盗を なしゝもの等、総べて公儀の法度に背きて、死罪以上の刑に行はるべきも の、及び悪事ありて永尋申付られしもの、(後に至り、関所を除け山越せ しもの、同案内せしもの、鉄砲を隠せしもの、荷物を押領せしもの、人勾 引、謀書、謀判、重き騙り、毒薬商売をなしゝもの等を追加せらる。)等 の旧悪は、一旦其の処置を伺ひ、評議の上、許否を決し、又、此れより以 外の旧悪者、悔悟の念、証拠分明にして、十二ケ月以上の既往に属する者 は、其の罪を許し、十二ケ月内より吟味に取り掛りしものは、旧悪となさ ずと。(窃盗は、古来みな死罪に処せられしが、享保以来、人家へ忍び入 り、若くは土台を破りしものは、金銀雑物の多少に拘はらず、死罪に処し、 出来心にて窃盗せしものは、入墨の上追放せらる)。喧嘩、また意趣討等 にて人を殺し、立退きたる時は、其の者の代として、其の者の親、若くは 子に入牢を命ず。然るに日数を経て、逃亡者なほ知れざる時は、永尋者と なし、親また子の入牢を解くと。


『大阪府誌 警察史』目次/その23/その25

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