Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.3.13

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その3

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

隆りて文武天皇の大宝年中に至りて、律令は発布せられき。現今の謂はゆ る刑法にして、是等また唐の永徴開元の律令に依り、其の主眼とせし所は、                        ちんぶ し 道徳に在りき。尋いで聖武天皇の天平三年、諸道に鎮撫使を置き、常に諸 国の兇徒を逮捕し、盗賊妖言を断じ、又、猥に弓失甲冑を帯するもの等を 咎め、若くは国司郡司の政事の善悪をも調査せしめしが、同十六年に至り             あ ぜ ち て、之れを廃せり。又、按察使、巡察使等を設けて、臨時に国司郡司の善 悪を察せしめ。而して是等の国司郡司は、方今の知事郡長の如き職権を                              そうてい 以つて其の国を治め、年齢二十歳以上六十歳迄の国民は、之れを壮丁と名 づけ、此の内、官吏及び廃疾者等を除きて、他を更に三分し、其の一を軍 団に入れ、一ケ年交替に上京し、衛門府、衛士府の衛士たらしめ、以つて 之れが任に当て、又、是等軍国の兵士は、三年交替を以つて、之れを筑紫 の辺要地、即、壱岐、対馬、五島、平戸の戌衛、其の他各国の警察事業の 任に当てき。 斯の如く、当時に於ける警察権は、専、武士の任務に属したりしが、奈良 朝の末に至り、綱紀漸弛み、諸国軍団の兵士は、其の長官及び国司等の為 に使役せられ、其の苦役に堪へずして、終に逐電するに至りき。是に於い て桓武天皇の御宇延暦十一年、筑紫、佐渡、出羽、奥州を除くの外は、終           よ     コンデイ に軍国を廃し、国に仍りては健児と称するものを設けて、警察の任に当て しが、其の効なかりき。


『大阪府誌 警察史』目次/その2/その4

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ