Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.3.14

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その4

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

夫より延喜以降に至りては、綱紀更に紊乱し、警察権は殆有名無実となり、                  おうりょうし つい ぶ し 随ひて諸国に不逞の徒輩出せしより、押領使、追捕使等を置き、臨時之れ を派遣し、是等及び盗賊等を鎮撫せられしが、後、また終に各所の長とな るに至れり。殊に京都衛府の官人の如きに至りては、益々柔弱に流れ、身 は武衛の職に在りながら、雲上人と相伍して詩歌管絃を弄し、警衛の事の 如き、毫も心を用ひざるに至れり。是れ畢竟、此等の武官は、世々貴顕よ り採用し来たりしより醸成せし宿弊にして、一朝一夕に来たりしものに非 ず。                      け び い し 是に於いて嵯峨天皇の御宇弘仁年中、初めて検非違使と云へる警察官を置 き、以つて之れが警衛に充て、爾来、その権力頻強きに至り、終に衛府の          ぎょうぶ      きょうしき 追捕、弾正の糺弾、刑部の判断、京職の訴訟等みな此の検非違使庁に帰し、 而して長官を別当と云ひ、衛門、兵衛の督を兼務せしめ、以下の佐、尉、 志は衛門府の官人の兼務となし、以つて管内を巡検したりき。然るに諸国 の検非違使、多く文弱の人より任ぜられ、職務の如きは、之れを放棄して、 顧みるものなく、徒に虎威を振ひて、人民を悩まし、其の甚しきに至りて ば、賄賂を取りて、罪人を見遁す等のことありて、遂に虐民の種どなり、 殊に冷泉天皇の御宇に至りては、京中に盗賊横行し、人民大いに困苦に陥 りき。蓋、当時文武権衡を失し、徒に文を尊びて、武を卑み、官人登庸の 如きも、専門閥に依りしを以つてなり。 降りて源頼朝の平家を亡ぼして後、行家義経等横行して、天下いまだ全く 治まらざるを以つて、朝廷に請ひ、全国六十六箇国に追捕使を置き、身づ から其の長となりて、之れを統御したりしを以つて、日本追捕使の称あり。           しゅご 後、諸国の追捕使は、守護と改まり、主として謀叛人、盗賊、殺害人等を 捜索するを職となしゝが、漸次国政に関与することゝなり、且、鎌倉幕府 の勢力盛なるに赴き、国司を圧倒し、遂に一変して守護職の管轄は領地と なりて、次第に検非違使も不用に属し、又、京都も武家の世となり、守護 職を置きて、洛中の警衛となすに至りき。 以上は、王政より武家に移る迄の時代に於ける警察制度、第二期の概況に して、此の時に於いては、いまだ軍務し警衛事務との区別なかりしなり。


『大阪府誌 警察史』目次/その3/その5

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