大阪府 1903 より
第五節 刑律及び刑の執行法。 幕府は刑の施行に関し、御定書二冊と例書一冊とを、江戸三奉行、及び 京都所司代、大阪城代に領かち、其の転任の時は、之れを返還せしめて、 新任の者に下附し、歴世以つて恒例としたりき。而して世の変遷と共に警 察制度も亦、その趣を異にしたりと雖、刑の施行に至りては、概して漸次 軽減に傾くの外、甚しき異動あるを見ず、故に、今茲に年を追ひて列拳す るは、徒に繋冗に捗る慊あるを以つて、本項は臨機、また律文に仍りし断 罪、処刑の諸例中、其の重なるものを集蒐し、且、其の執行法を挙げ、以 つて当時刑政の一斑を窺ふに供せんとす。 晒鋸挽 諸刑中、極重なるものを晒鋸挽の刑とす。今、其の方法を略記せんに、 まづ晒場に深三尺四方の穴晒箱を埋め、其の後に土俵三俵を積みて、其の は 中に囚人を縛り附け、枷板目と称する板を以つて、首を嵌め、首のみを出 ださしめて、左右に蓋をなし、更に箱の左右に、土俵一俵づゝを載す。而 して食事並に両便のときは、其の蓋を取り去りて、穴晒箱より出だし、之 れを弁ぜしむ。 元来此の刑を行ふは、一日間引廻はしの後にして、罪人の両肩に刀目を入 れ、其の両側に、鋸及び血を附着せしめし竹鋸を備へ、往来のものをして 勝手に之れを挽かしむ。然るに慶安年中、江戸にて石谷将監の掛にて、妙 仙といふ者、日本橋に晒されしとき、往来の者、真に之れを挽きしより、 之れを禁じ、後、幾干もなくして、終に之れを廃して、竹鋸を備ふるのみ なら となし、大阪も亦この経に傚ひき。此の刑は晒鋸挽の刑を終へたるのち、 磔に行はるゝものにして、其の晒初日の出役は、東西の与力各二人、牢屋 敷に出張し、囚人は青縄本縄を懸け、片錠を下し、改番所にて更に之れを 改め、与力は晒を宣告し、束西の同心各二人、牢屋同心二人、その他附添 の非人穢多数名にて、毎日午前七時より午後五時まで、晒穴箱に晒すこと 二日間。又、帰牢中に手鎖を掛け、三日日に至り、荒縄を以つて掛替へ、 かぎ 改番所へ呼出だし、鎰役は其の名前、肩書、年齢、入日等を検し、与力は、 更に晒の上、礫に施行することを宣告し、且、田畑、家屋敷、家財共に没 収せらる。而して此の罪に恰適するものは、 一 主殺以上 なれとも実際多く行はれし事なし。