Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.4.12

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その32

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

  第五節 刑律及び刑の執行法。  幕府は刑の施行に関し、御定書二冊と例書一冊とを、江戸三奉行、及び 京都所司代、大阪城代に領かち、其の転任の時は、之れを返還せしめて、 新任の者に下附し、歴世以つて恒例としたりき。而して世の変遷と共に警 察制度も亦、その趣を異にしたりと雖、刑の施行に至りては、概して漸次 軽減に傾くの外、甚しき異動あるを見ず、故に、今茲に年を追ひて列拳す るは、徒に繋冗に捗る慊あるを以つて、本項は臨機、また律文に仍りし断 罪、処刑の諸例中、其の重なるものを集蒐し、且、其の執行法を挙げ、以 つて当時刑政の一斑を窺ふに供せんとす。 晒鋸挽  諸刑中、極重なるものを晒鋸挽の刑とす。今、其の方法を略記せんに、 まづ晒場に深三尺四方の穴晒箱を埋め、其の後に土俵三俵を積みて、其の                           中に囚人を縛り附け、枷板目と称する板を以つて、首を嵌め、首のみを出 ださしめて、左右に蓋をなし、更に箱の左右に、土俵一俵づゝを載す。而 して食事並に両便のときは、其の蓋を取り去りて、穴晒箱より出だし、之 れを弁ぜしむ。 元来此の刑を行ふは、一日間引廻はしの後にして、罪人の両肩に刀目を入 れ、其の両側に、鋸及び血を附着せしめし竹鋸を備へ、往来のものをして 勝手に之れを挽かしむ。然るに慶安年中、江戸にて石谷将監の掛にて、妙 仙といふ者、日本橋に晒されしとき、往来の者、真に之れを挽きしより、 之れを禁じ、後、幾干もなくして、終に之れを廃して、竹鋸を備ふるのみ             なら となし、大阪も亦この経に傚ひき。此の刑は晒鋸挽の刑を終へたるのち、 磔に行はるゝものにして、其の晒初日の出役は、東西の与力各二人、牢屋 敷に出張し、囚人は青縄本縄を懸け、片錠を下し、改番所にて更に之れを 改め、与力は晒を宣告し、束西の同心各二人、牢屋同心二人、その他附添 の非人穢多数名にて、毎日午前七時より午後五時まで、晒穴箱に晒すこと 二日間。又、帰牢中に手鎖を掛け、三日日に至り、荒縄を以つて掛替へ、          かぎ 改番所へ呼出だし、鎰役は其の名前、肩書、年齢、入日等を検し、与力は、 更に晒の上、礫に施行することを宣告し、且、田畑、家屋敷、家財共に没 収せらる。而して此の罪に恰適するものは、  一 主殺以上 なれとも実際多く行はれし事なし。 


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