Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.5.13

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その59

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

 越えて同六年二月、邏卒を改めて番卒長、伍長、番卒を設け、翌七年三 月聴詭課中の捕亡掛を庶務課に附し、警保係と改称し、更に管下に二十七 箇所の屯所を増置し、各屯所に番卒二名、番人三名、及び一大区中には、 伍長一名を附す。即、番卒長二名、伍長六名、一等番卒二十五名、二等番 卒五十一名、番人八十一名にして、服制は、冬は紺色羅紗、夏は白布のジ ヤケツとし、番卒長は、冬服は袖に白綿布の幅三分のもの、三分開きに三 筋を廻はし、夏服は黒印にして、帽は周縁に黄線三條を繍し、伍長は被服、 帽共に印二條、番卒は印一條、その他、靴、雨具料を之れに給与したりき。 今、明治五年四月に設けられし市郡の制法、総べて二十八箇條中、警保上                                 れん に関するものは、従来公事訴訟上、多く自己の力を尽さず、順序を忘れ廉 耻を破るもの尠なからず、今後公訴せんとするものは、親族、朋友等に図 り、其の是非、曲直を糺し、條理の止むを得ざるものに在りては、区長の 指揮を受けて、官裁を仰ぐべし。 また、官林竹木の濫伐を禁じ、盗賊、乱暴人、及び水火災難等、都べて非 常の急変あらば、其の町村内、互に協力し、又、官吏の権威に誇り、賄賂 を貪る等の者は、速に封書にて、目安箱に訴へ出で、戯場興業は、もと勧 善懲悪の旨趣なれども、近来その意を偏見し、風俗をして放蕩淫惰ならし め、農商の妻女は、三弦舞曲を学びて、家産頽敗の媒介となるもの多し。 自今之れを厳禁し、犯す者あらば、処罰す。 横死の者あらば、其の原因を糺し、官庁に達して、其の差図を受け、又、 遠路懸隔の地の旅客の道路等に於いて、発病困苦に迫る者あらば、速に治 療を施し、官庁に達すべし。 人身の売買、棄児、堕胎、また鴉片煙草の売買、その他、賭博類は、之れ を厳禁す等にして、同年九月、徒刑の制を更正し、即、徒刑人中、准流人 に限り、男は双眉を剃り落し、法被は柿色にして、背に堺徒准流と記し、 女は額の髪際、曲尺一寸四方を剃り落す事とせり。 後、此の種の職制及び諸達を下しゝこと数十種にして足らずと雖、要する に、大阪に於けるものと大同小異なるを以つて、今爰に之れを贅せず。 而して明治十四年十一月、堺県の廃せられ、大阪府の管轄となりては、其 の揆も一となりて、堺警察署と称し、今は本署を市ノ町西一丁に置き、各 所に十数箇所の交番所を設けたり。  徒刑場は、今の車ノ町東三丁、棄児愛育社の所在地なる、旧牢屋敷を利 用したりしが、囚人増加して、狭隘を告げ、往々脱走する者あるを以つて、 明治五年六月、大歳省に伺ひ、更に牢屋敷の隣地に新築し、後懲役場とい ひ、監獄といひ、又、堺県の大阪府と合併以来、更に同町櫛屋町西三丁に 移転し、大阪監獄署の分署となり、以つて現今に臻れり。


『大阪府誌 警察史』目次/その58/その60

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