大阪府 1903 より
越えて同六年二月、邏卒を改めて番卒長、伍長、番卒を設け、翌七年三 月聴詭課中の捕亡掛を庶務課に附し、警保係と改称し、更に管下に二十七 箇所の屯所を増置し、各屯所に番卒二名、番人三名、及び一大区中には、 伍長一名を附す。即、番卒長二名、伍長六名、一等番卒二十五名、二等番 卒五十一名、番人八十一名にして、服制は、冬は紺色羅紗、夏は白布のジ ヤケツとし、番卒長は、冬服は袖に白綿布の幅三分のもの、三分開きに三 筋を廻はし、夏服は黒印にして、帽は周縁に黄線三條を繍し、伍長は被服、 帽共に印二條、番卒は印一條、その他、靴、雨具料を之れに給与したりき。 今、明治五年四月に設けられし市郡の制法、総べて二十八箇條中、警保上 れん に関するものは、従来公事訴訟上、多く自己の力を尽さず、順序を忘れ廉 ち 耻を破るもの尠なからず、今後公訴せんとするものは、親族、朋友等に図 り、其の是非、曲直を糺し、條理の止むを得ざるものに在りては、区長の 指揮を受けて、官裁を仰ぐべし。 また、官林竹木の濫伐を禁じ、盗賊、乱暴人、及び水火災難等、都べて非 常の急変あらば、其の町村内、互に協力し、又、官吏の権威に誇り、賄賂 を貪る等の者は、速に封書にて、目安箱に訴へ出で、戯場興業は、もと勧 善懲悪の旨趣なれども、近来その意を偏見し、風俗をして放蕩淫惰ならし め、農商の妻女は、三弦舞曲を学びて、家産頽敗の媒介となるもの多し。 自今之れを厳禁し、犯す者あらば、処罰す。 横死の者あらば、其の原因を糺し、官庁に達して、其の差図を受け、又、 遠路懸隔の地の旅客の道路等に於いて、発病困苦に迫る者あらば、速に治 療を施し、官庁に達すべし。 人身の売買、棄児、堕胎、また鴉片煙草の売買、その他、賭博類は、之れ を厳禁す等にして、同年九月、徒刑の制を更正し、即、徒刑人中、准流人 に限り、男は双眉を剃り落し、法被は柿色にして、背に堺徒准流と記し、 女は額の髪際、曲尺一寸四方を剃り落す事とせり。 後、此の種の職制及び諸達を下しゝこと数十種にして足らずと雖、要する に、大阪に於けるものと大同小異なるを以つて、今爰に之れを贅せず。 而して明治十四年十一月、堺県の廃せられ、大阪府の管轄となりては、其 の揆も一となりて、堺警察署と称し、今は本署を市ノ町西一丁に置き、各 所に十数箇所の交番所を設けたり。 徒刑場は、今の車ノ町東三丁、棄児愛育社の所在地なる、旧牢屋敷を利 用したりしが、囚人増加して、狭隘を告げ、往々脱走する者あるを以つて、 明治五年六月、大歳省に伺ひ、更に牢屋敷の隣地に新築し、後懲役場とい ひ、監獄といひ、又、堺県の大阪府と合併以来、更に同町櫛屋町西三丁に 移転し、大阪監獄署の分署となり、以つて現今に臻れり。