Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.5.20

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その66

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

 以上に於いて、警察に関する概略を終れり。然れども尚附記せんと欲す るもの二あり。即、一は監獄署にして、他は裁判所なり。両者とも警察制 度に直接関係なきが如しと雖、維新前に於いては、殊に密接なる関係を有 し、既に之れを説くに当りても、多少これを挙げたるを以つて、亦極めて 簡単に、左に其の大要を摘記せん。 監獄署。徳川の朝政を奉還するや、大阪は一時混乱の巷となり、警察権の 行はれざると共に、監獄制は、亦依然として旧制の如くなりしが、明治元 年十月三十日、初めて囚人に関する諸達を下し、漸にして事務の整理、茲 に其の緒に着けり。 当時は瓦土取場なる、元高原溜を以つて徒刑場に充て、又、堺に分署を設 け、称して徒刑場といひ、後、また分署を中ノ島旧佐賀藩鍋島屋敷趾に置 けり。即その諸令中、徒刑場の者は、髪元結際より一寸許先を切り放ち、 首に鉄輪を嵌め、空色の法被に、白にて徒の字を背に染め抜き、同色のパ ツチを着せ、以つて毎日普請場に於いて使役せしめき。 又、明治二年二月十九日より、堺県徒刑の者は、眉毛を剃り、首に堺県と 彫付けし鉄輪を嵌め、被服は、柿色にして、背に白三箇所の丸に徒の字を 記し、且、肩に欠の字を印せり。 又、同年五月三日、摂津県、徒刑の者に向かひては、男は左の片眉、女は 前髪を剃り落し、髪は男女とも藁にて結び、首には摂津県と彫りたる真鍮 (同月十七日鉄に改む)の輪を嵌め、被服は木綿の白地に、背に浅黄色に て徒の字を染込む。 翌三年十月五日、牢内差入物は、従来食物迄をも許可せられたるに、再後 衣類の外、都べて之れを禁ぜられしが、同五年三月十二日に至り、食物の 代金の差入を願ふを許し、後また金銭の差入を禁じて、衣類食物、その他 道徳上に関する書類等、現品の差入を許せり。而して罪科の吟味中、入獄、 若くは入圏の者に向かひ、従来親族、又は町村より宿下ゲを出願したると き、之れを許可せしが、吟味上繁雑の手数を要するを以つて、爾後之れを 禁ぜり。 越えて同五年九月に至り、道路修繕、溝浚へ、土地の開墾、その他、之れ に類したる労役のため囚人を雇入れんとする者は、規則書熟覧のうへ、徒 刑場へ申出でしむ。 翌六年三月十二日、徒刑場を改めて懲役場と称し、同七年四月十七日、本 署を中ノ島分署、即、北第十一区旧佐賀藩邸趾に移転し、後、また北区若 松町に移転し、分署を堀川、中ノ島、松屋の各所に置けり。 降りて同十三年四月三十日、本府は是れより先、同七年六月二十九日に設 けられし警察課中の囚獄掛を、未決監獄署、懲役掛を已決監獄署、監倉掛 を未決監倉署と改称し、翌十四年に至り、政府は初めて各国一般に刑法を 実施し、之れと同時に、懲役場の名称は、監獄となり、典獄、副典獄、書 記、看守長、看守を置き、典獄は監獄長を兼ね、府知事に旨を受けて、之 れを総理し、副典獄は、典獄を助け、書記は、主務に従事し、監守長は、 監獄の戒護を掌り、兼ねて看守の勤惰を視察し、看守は、監獄の戒護に従 事す、其の他、女監取締、教誨師、医師、授業手、押丁、使丁等を設けて、 監獄内百般の事務を分掌せしむ。 斯の如く当所監獄の、本府より管理せられし迄は、其の制度、屡、改正を 加へられ、殊に当初囚人待遇の如き、眉毛を剃り落す等、猶少しく旧制の 遺風の存するものありて、各府県、稍その制を異にしたりしが、政府の刑 法実施以来は、全国その揆を一にし、其の以前に於ける地方制度の如き、 亦、改正増補して、或ひは、非現行とするものあり。或ひは現行とするも のあり。 越えて同十七年に至り、松屋町の分署を廃し、同十九年、本署、分署の称 呼を改めて、何れも監獄と称し、同八月、中ノ島、及び奈良、五條の監獄 を廃し、同二十一年に至りて、終に若松町監獄を廃して、堀川、及び堺の 二箇所となし、同二十三年十月、監獄の名称を改めて、堀川監獄署、堺監 獄分署となし、以つて今日に至れり。


『大阪府誌 警察史』目次/その65/その67

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