Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.5.25

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その71

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

  第三節 警察法  明治維新後に於ける我が大阪の警察制度は、大略以上記するが如し。然 れども、尚、新たに設けられたる当大阪の諸取締規則あり。是れ、即、今 の謂はゆる地方違警罪とす。  然れども、此の規則たる其の範囲、極めて広く、且、繁雑なる他、地方 の比に非ず。蓋、大坂は、徳川幕府時代より、本邦商業の中心となり、維 新後に至りては、一躍して、東洋の中心と化し、更に進んで、世界商業の 競争場裏に頭角を顕はすに至りし以来、諸種の人士の輻輳するもの極めて 多く、或ひは前途に光明を認めて来たるあり、或ひは空中に楼閣を書きて、 来たるあり、其の他、或ひは浮浪の民、或ひは無資本者の来たり集まる者、 日々益々多く、為に、商業にまれ、工業にまれ、衛生にまれ、其の他諸種 の取締、若くは処分に於ける行政司法等、警察事務の頻繁なる、実に本邦 第一にして、随ひて、謂はゆる地方違警罪の如き、亦、数百種にして、止 まず。今、聊、左に警察権の行はれし以来の重なるものを概説せん。             ただおさ  明治元年五月七日、醍醐忠順、来たりて、大阪裁判所長官となる。当時、 大阪裁判所は大阪府、長官は知事たり。然るに同月二十七日を以つて醍醐 の去るや、後藤象次郎、代りて事務を管掌し、同七月十五日、知事となれ     にしよつつじ *1 り。後、西四辻少将を経て、渡辺昇の時に至る迄、府令の発布せられし、 極めて多く、渡辺昇も、明治五年七月、取締綱例を布き、その細則を設け き。即その取締と称するものは、布令を貫徹して、人民を保護し、其の生                        さんじょ 業を安全ならしめ、且、盗賊兇徒、その他の妨害を芟除して、市街を鎮撫 し、風俗を反正せしむるを以つて主眼とせり。 今、その綱例の大要を拳ぐれば、職員は各自信義を厚くし、礼節を重んじ、            こうしょ 方正廉直にして、公務を苟且にせず、人の功を奪はず、人に労を譲らず、 互に相扶助し、相保護し、其の職務を完うし、而して職員に、局長、及び 伍卒、巡邏、見張番等の別あり、局長及び伍長は、休暇定日の外、昼夜局 内に在勤し、巡邏、并に見張番は、能くその装裳を正しくして、諸般に心 を配り、聊不作法の体裁をなさず、又、市民に対し、猥に威喝を示さず、 務めて温顔和辞を旨とし、府庁の諸令は勿論、その長官の指揮に従ひ、若、               おこた 命令に背き、若くは其の職務を惰り、其の他規則を犯す者は、律例に照し、 相当の所置を受くべし。猶、各局の受場区分を定め、其の受場中、横死人、 自害人、溺死人等、その他非常の事は、総べで之れを本庁に報告し、若、 異変あるとき、臨時応急の外は、速に報告し、その指揮を受け、又、途中 に於いて、内外人民の病気、其の他の災難等に罹りたるときは、懇に世話 をなし、臨機の所置を執るべきものとす。若、人民の命令に違ふ者あらば、 其の軽重に依り、諭告、若くは取押へ、悪徒捕縛の如き、手向ひ等をなし て、取鎮め難きときの外、猥に得物を以つて打擲すべからす。


*1 西四辻公業(にしよつつじ きみなり)


『大阪府誌 警察史』目次/その70/その72

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