Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.5.31

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その77

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

 徳川以前に於ける流罪は、各一箇年間、配所に於いて苦役せしめ、又、 加役流と称して、死罪以下、流罪以上に相当するものは、三箇年間の流罪 にして、妻子を伴なひ、一年間を苦役し、終れば、其の地に戸籍を編入し、 家業を営むを得、又、仕官者にして極重罪にあらざるものは、六箇年を経 過すれば、出仕を許されき。即、今の謂はゆる公権回復にして、全く自由 の身体となることを得しが、徳川の代となりては、配所に戸藉を編入する ことを許しゝが、家族を率ゆることを得ず、然れども、大赦あらば二、三 箇年にして帰郷を許さるゝものありき。   おっそ 又、越訴と称し、順序を踏まず、直ちに上に訴ふることあり。即、其のは じめ、郡司に申出で其の裁判不服に際し、国司に申出で、国司の裁判にし て、尚、不服なる時は、京都の太政官に申出で、其の上に上奏するは、大 宝令の定にして、武家に至りても、越訴奉行を置きしが、徳川時代に至り、 之れを廃し、評定所に目安箱と称するものを設けて、人民の陳情書を入れ しめ、将軍、直ちに之れを閲覧したりき。 刑を執行するに当り、現今は裁判宣告後、数日間の猶予を与へ、其の間、 控訴、或ひは上告等をなすことを得れども、徳川時代に於いては、上告の 途なきにより、多くは直ちに刑を行ひ、殊に死罪の如きは、宣告後、直ち に之れを執行したりき。  いにしへ、国事に身を尽して、法は触れたるものは、悉、これを謀判と み な 見做し、其の家族に至る迄、罪に行はれしが、現今は首魁、及び教唆者の み、死罪に処せられ、其の他は、仮令群集を指揮して、枢要の職務を為し たりとも、無期流刑に止れり。  又、いにしへ、凶徒聚嘯の造意者は、応仁戦国の世の遺風として、斬刑 同意者は洗刑に処せられしが、現今は、真の首魁たりとも、三箇月以上、 三箇年以下の重禁錮となれり。蓋、元来人民は、猥に暴動を好むものに非 ず、必ずや、止み難き趣意の存するに起れるものたるを以つてなり。 官吏収賄の如き、古は、収金の多寡に仍りて、刑に軽重あり、即、三百両 以上を収容せしものは、絞罪なりしが、現今は、其の多寡に拘はらず、一 箇月以上、一箇年以下の重禁錮、及び罰金に処せられ、尚、不正の作為あ る者は、一等を加へ、若、犯者にして判事、警察官たる時は、二箇月以 上、二箇年以下の重禁錮、及び罰金にして、不正の所為ある者は、更に一 等を加へらる。 是等の、古は重くして、今の軽きものは、其の法律の根本精神を異にする に基づけるものにして、古は、法律は、総べて、殊に道徳に拠りて成り、 此等は破廉耻の甚しきものとして、斯く重く定められしものなり。


『大阪府誌 警察史』目次/その76/その78

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