Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.3.18

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その8

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

 第一章 維新前。   第一節 城代。  後土御門天皇の明応四年、僧兼寿(蓮如上人)、生玉の荘、石山の岡陵 を卜し、巨刹を創立し、称して石山本願寺と云ひ、後、七拾余年を経て、 天正の初該寺の法主光佐(顕如上人)に至り、宗教の勢力は、殆、諸侯に             だんおつ 抵抗するに足るを以つて大檀越毛利元就の力を仮り、此処に塁壁を築き、 ごうざん                      けんよ 壕塹を穿ち、以つて城廓となせり。是れ即、石山城の権輿なり。而して光 佐は職田信長と隙を生じて、相戦ふこと十有余年にして、天正八年、和を 講じて天満の別院に移り、尋いで紀州雑賀に遜れしが、其の子光寿、なほ 留りて守備を修め、再挙を図らんとせしを以つて、信長大いに怒り、兵を 遣はして之れを攻め、光寿、終に罪を謝し、城を致して去り、信長は男信 孝をして之れを守らしめき。 後豊臣秀吉の天下に覇たるに及び、天正十一年、更に爰に築城の大工事を 計画して、諸侯に巨石大木を課し、工を近国十余州に命じ、工成るに及び、 殿宇の壮麗塹塁の堅固、天下第一と称せられ、降りて慶長三年に至り、秀       こう 吉の伏見城に薨ずるや、嗣子秀頼城主となる。然れどもなほ幼沖なるを以 つて、徳川家康をして事を視せしむ。 尋いで同四年、前田利家は、秀頼を奉じて大阪城に徒り、同七年、家康ま た大阪城に入る。当時家康は、諸侯の賞罰を行ひ、其の威権益々熾にして、 城主秀頼は唯摂河泉三州六拾余万石を食むのみなりしかば、同十九年に至                                 きん り、諸将に命じ、事を図り、以つて其の業を恢復せんとし、遂に家康と釁 を生じ、戦端と開くに至れり。即、謂はゆる大阪の冬陣、夏陣、是れなり。 然るに事利あらずして、秀頼自刃し、城また逐に陥る。実に元和元年五月 なり。


『大阪府誌 警察史』目次/その7/その9

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