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ひとり
一個の壮士、手に猟銃を携へ、終日山中をあさりて、思はず山奥深く進み
入りしが、鳥の啼き声、已に絶へたるに心付き、独り心に思ふ様、斯く迄
奥深く進み入りながら、未だ一の獲物なし、止みなん/\いざ帰らん、と
携へたる銃を杖に、元と来し道をたつねて、麓の方へ下らんとするに、
こ いつぼつ
箇はそも如何に忽ちにして峡路、已に汨没して、査然たる深谷に入りぬ、
ながれ こみち
壮士は大に怪み、先刻来りしは渓流に沿ふたる径路なりしに、今かゝる所
に迷ひ来りしは、不思議なれ、此の深山に狐狸の住む可き様もなし、踏迷
ひしならんと引返さんとする、折しも遥か彼方に声ありて、何やらん吟ず
るに似たり、耳を傾けて之を聞けば、湖上烟波未帰。無功漁釣亦応非。頼
佐地方済持効。今秋共製荷衣と聞へけるにぞ、壮士ます/\怪み、銃を
こうぐわん
取り直しつゝ洞中を窺へば、白髪黄顔の老翁、一葉の羽扇を以て此方を招
くなり、心中大に驚けども、弱を示さば侮られん必定なりと、憶する色
なく進み寄れば、翁曰く、汝壮士驚く事なかれ、余此所にありて、汝を俟
つ久しかりし、汝しばらく此席に坐して、共に語り候へとあれば、壮士
答へて言やう、吾れ此の山に遊ぶ事数年なれとも、未だ翁を見ず、今日初
て相見ゆる事、いぶかしく存ずるなり、殊に翁の吟ぜられし詩を聴くに、
湖上烟波未帰。無功漁釣亦応非。頼佐地方済持効。今秋共製荷衣と
言へり、之れ大塩平八郎が松陰集の著成りしときに口吟せし詩と覚ゆ、翁
の作なりや否や知らされとも、今日、翁の身を以て此詩あるは、亦たいよ
/\怪しくこそ侯へと難すれば、翁、莞爾と打笑ひ、汝、いしくも申した
り、余は則ち大塩平八郎なるぞ、余、徳川の末路、太平の沢溢れて、人心
ゐ び
驕奢に走り、在上の吏、私恣を恣にし、賄賂公行し、天下挙て萎靡不振の
極点に達せんとす、此の頽勢を換回せんには、非常の事を以てするにあら
ずんば、天下の酔眼を驚破するに足らずと、天保八年二月十九日、賤民を
救ふを以て名とし、兵を大坂に挙げたり、然れとも、時機至らず、事忽ち
漏れて、計畧合期せず、終に目的を達する能はざりき、余、則ち再挙を
謀らん事を思ふが故に、十九日の戦場を脱し、大井正一郎、養子格之介等
と共に近村に隠れたれとも、探偵厳しきを以て、再び大坂に入り、美吉屋
五郎兵衛方に潜居したり、然るに事終に露顕して、討手を向けられしが、
大井と格之介は其場に討れ、余は一方の血路をもとめて近江の伊吹山に遁
れ、彼の山に在る三年、後ち信州御嶽の深山に隠るゝ十年、亦た出羽
の月山に五年、常陸の筑波山に七年、後此秩父山に移りて、こゝに九年の
としつき
星霜を送りぬ、
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汨没
埋もれる
「大塩平八郎小伝」
合期
(ごうご)
間に合うこと
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