『旧幕府 2巻12号 』(冨山房雑誌部) 1898.12 より
跡にて聞けは、賊徒天神橋を渡りて切落しある所迄来て、夫より引返して難波橋の方へ廻りてわたりしとなり
此方は、橋の南の町家蔭に潜み伏して待請、橋を八九歩渡りたる所を 俄に出て打捕なは、橋は長し 見通しはよし、橋の上故 左右へ迯散ることは出来す。多分 此所にて被捕、平八郎も打得へきものを。左すれは仙波(船場) 上町は一軒も焼かすと済むことにて、市民の難義を救ふことも多分也し、大事の功を仕損したりと、此事を思ひ出す度毎に残念いふへくもなし。
是は貞の智慮の足らぬことにて、自ら我身を恨むより外なし。
市中の小路軍程仕難きことはなしと、古人の云しこともあり。如何にも尤なる事にて、昔の鎗長刀の戦にさへ、敵軍の形勢が知れぬ故、唯何方にても出会た所が勝負と云ものにて仕難也。
況や此度は鉄砲の飛び道具を持ながら、とこにても出会がしらが勝負にて、其上唯一 筋を見通す斗、横町にては如何なる人数がありて、如何様の事を為し居るやら、更に見透すこともならず。
纔に町幅二間に不足ぬ一筋にて、鉄砲を打合て、四辻の人か纔に一間左右へ片寄れは、此方より見へぬ様になりて、更に敵の形勢を見ること出来す。
さるゆへに、一町目にて出会て一放打て玉込せし間に、辻の賊は一人も見へすなりて、現在其所に一人打倒したるものありて、其近所迄は進み近寄たれ共、辻まて出来ぬは、四辻の左右に如何なる敵の伏してあるへきも知れねは、無拠引返して元の瓦町へ出て 西へ行き、其次の八百屋町筋に 賊徒居るなるへしと思ひしに、一人も見へす。
其次の堺筋に出逢し時は、前の一丁目にこりたる故、一放打と駈進みて、紙屋の戸口にありし紙荷を小楯にとりて 此紙屋を跡にて尋ねて改め見しに、丁度町の中半にて辻より二十間あり 玉込せしか、大筒を梅田か曳て西の筋へ這入らんとせしを見、又辻より西へ大筒を曳入させては、四辻へ駈出ることの無束敷と思ひし故、駈進みて梅田を討取しは、又た八九間出て、四辻迄十間斗の所にありし、音と一所に倒れたれとも、四辻へ駈出る時は、左右の方に如何なる敵の伏し居て、鎗か太刀にて刺撃せんも斗られすと思ひ、其時は鎗にもせよ、太刀にもせよ、此方は鉄砲を以 指火にて打取べしと、先人の教へ通りを守りて、玉込して口薬を込、火縄も指に持て指火の技の支度を整へ、夫から掛声して四辻へ駈出たれは、梅田打倒してから、纔に玉込せし隙に、最早賊徒は近辺に見へす。