『旧幕府 2巻12号 』(冨山房雑誌部) 1898.12 より
東は一丁目近所迄焼、北西の方も延焼の所故、早々片付されは忽地雷火の災有事なれば、跡部の来らるゝを待て、早々片付の事を申述たり。扨、此時も貞か知慮の足らぬより行届ぬ事あり。後悔詮なき事なから、後の学のため記し置也。
賊徒は 忽 散乱して大砲其外 火薬 長持 具足 鎗まて取捨て散乱せし故、今迄必死となりし心も先つ勝たりと思ふ所より、少々弛みて、其辺の道具を取片付る内は、貞は西かは角屋を楯に取て軒下に立て、鉄砲を持なから同心中へ指図をして、荷物の片付を手伝せ、近辺町家は悉く逃散して皆明家にて、中には膳を並て飯を喰掛て其儘逃たりと見ゆる家もあり。
近辺一人も人無く、其明屋の中には賊の隠れ込居るものもあるへく思ひし故、跡部へ吟味の事を申述、両三軒へ吟味もあれ共、是も行届たる事もなく、此方 同心にて 一人賊を召捕たるもあり。
今少し能く吟味未たいくらも近辺に隠れ居たるへし。
此時貞か油断といふは、ー端勝利を得て、少々心の弛みたるより、何となく怠ることなれは、此の時、若 近辺より俄に二ノ目を撃たれなは、忽敗北すへき程の事也。
跡にて思へは、此時先つ同心三人程づゝ四手に分て、一町づゝ四方の四辻へ張出させ、斥候をさせて置て、其上にて此所の取片付にかゝるへき筈也。
必竟事なく済たる故能けれ共、法令は一向に無き事にて面目なし。
又、貞か愚智といふは、賊は北西より来るを、此方は東南より討しことなれは、賊か敗散は唯西北の方と斗り思ひて、北西は堺筋の見通しゆへ、淡路町を西へ逃たり斗思ひて、第一四辻へ駈出すと、先つ西の方のこと斗心付て見る事なりしか、
跡にて囚人の白状せしを聴は、其時 平八郎を始め徒党の者共十何人、淡路町を東へ半町不足逃て、北側の町家に帳箪笥をかつきて逃出んとする所へ這入て、今頃たんすなと持て逃る事は出来ぬ程に、命丈ケを助ると思ふて早く逃よ。其たんすは我等が持て出して遣る、
何方へ出そふと尋る故、何町の東堀の川端へ出したくと答へけれは、さらは 置て早く逃よ、左なくは 命かないといふ故、其家の者四五人唯恐敷計にて、其儘駈出したる
跡の戸口を〆切り、其家の奥にて支度を仕替て、大小は悉く帳箪笥へ仕廻、市中の者か火事に迯る様なる風躰になりて、扨、其荷物を銘々かつきて、其町家の裏尻の塀を壊ちて、平野町の町家裏より平野町へ出、東堀へ迯て、
夫より船に乗て、其日を一日天満橋の下とやらに船にて隠れ居、天満橋の上を尼崎又右衛門か通るを平八郎見て、尼又か今通るとて手拭にて頬冠りしたり抔して、騒動のやうすを夜迄見て、日暮てから四ッ橋へ行て、夫より陸へ上りて、亀ケ背峠を大和へ越すとて、百姓家へ寄りて松明を燈させ、道案内者を雇ひて、其案内者を途中にて切殺し、徒党の者追々道にて離散して、卒に大塩父子計になつて、坊主になりて油掛町へ戻りて潜み隠れしは、廿日廿一日頃の夜のよし也。
是皆平八郎か謀略にて、ケ様の時、結句 手元の所に潜み易く、他国へ離れては段々と手弦か付て 吟味か早きことをよく知り居たれは、四ツ橋の川へ具足や着込を投入て先つ入水にても致たかと疑わせ、夫より亀ケ瀬峠にて案内者を切殺して、大和の方へ迯去たりと思はせ、徒党の連中は夫迄に諸所にて離散致させて、皆所々にて追々囚ても、平八郎父子の行衛を知らず。
自分は取て反して、大坂の市中に潜み居たる抔は、従来獄吏にて其道に通達したりとはいへとも一つは智謀のある所作也。夫を知らす 場所にて唯簡 西の方を専一と思たるは、如何にも遙に劣たる智恵なりと、自分さへをかしき程に面目を失ふことなり。
火急成場にては、平日よりも一入心を落着て 思慮を廻らされは、心逼て狼狽するもの なれは、行届ぬ事も多く出来る者也。又如何程気を鎮めて思慮したりとも、元来量の 狭き智の足らぬものは、矢張 行屈かぬ事多き者也。心の逼るも、量の狭きも、智の足らぬも、皆 学文にて寛大になることなれは、小量の士は、猶更 学文にて 識を弘めされはならぬこと也。識が弘まれは、自分智も量も増す事なるへし。