『旧幕府 2巻12号 』(冨山房雑誌部) 1898.12 より
此役所へ攻来を待て、かく防禦の拵をする所に、天神橋を切落とし、此所へ来らぬ様にするは何故やらんと得心の参らぬ故、意甚不束の返辞を致たり。
扨、其以前に同心を大勢召連て参り、庭内へ同心中を呼入たる時、跡部の家来か尋に参りたるは、
扨、此所にて貞か愚鈍なることを跡にて熟々自得して、我身なからも愚鈍を甚後悔致すことなり。其仔細は、遙跡にて、遠藤殿御申には、
其子細は、凡大塩の門の閾を越へたる程の人は、何方に一味のものあるへきも知れす。又、貞か大塩へ数年交りあることは、何の方の組にても知りたる人あれは、夫等か指を折て、玉造組に而は誰々 と数へたる中に入りたるべし。
藤重樋太郎は、去年より大塩格之助へ砲術の指南に頼まれて、月々三度づゝ此頃より通し者也。
夫故、最初に同心の中に若入て参たか と疑念ありしこと、跡部は、我組内より徒党の張本人発起して、其中 同心の平山助次郎と云か、十七日の夜中に訴人に出て、其席より直に江戸表へ発足させ、与力両小泉淵二郎 瀬田済之助は前夜役所の泊り番にて、今朝未明に 一人は討留たれとも、一人の済之助は迯走りて、事の起りたる事にて、御弓同心其外他 向に徒党の人も多く、既に玉造組の大井到一郎も徒党の中なれば、何れの誰々といふ差別は、未た此時は更に黒白の分れもなく、加勢に参りたる他所のものゝ中にも、平日 大塩と交りのある人は、更に油断のならぬといふ折節なれは、玉造組の加勢も真実 頼にもなり難き事なるへし。夫に貞は其処に少も思慮の行届かぬこと故、唯 異な差図をせらること哉、異な事を尋られる哉 と斗思ひて、此方を疑るゝとは露斗も心付 更に無きは、後悔しても及はぬ 己か愚鈍と云物なり。