『旧幕府 3巻1号 』(裳華房) 1899.1 より
貞か供の者とも 宅へ帰りて 其由 申せし故、又 外のものを供に拵て、跡より越せしは、東奉行所にて休息の時分也。供の者のなくなりしは此外にもありし。跡にて、京橋組の者か此事を聞て評するには、
間(問)に落ねと語るに落るといふ下セ話あり。なる程尤もなることにて、此度の玉造組にて 殊の外手柄もありて、一廉 皆出来たる様に世間にて評判も致し、角力の取極抔に拵たるもありて、市中抔にては 一入称美すれ共、其内裏の所にては面目を失ふ事も数々あれと、人々 己か怯憶不束なることは包み隠して云はす。外面をとり飾りて 裕々一廉 勇剛に働たるふりはすれと、実事のなきことは何その端には化ケ皮のあらはるゝもの也。
貞か引連たる同心三十二人は、直に貞の跡へ引続て二行に並て参れと申付たれは、悉く其通りにせしことゝ思ひ、道筋にても後ろへふり向て改ても見されとも、同心の跡からは 又 平与力も参り、其跡は 跡部の人数もあれは、さして跡へ後るべき事は出来ぬ筈なるを、支配下同心猪狩耕助か何やら話の序に申は、此度跡部殿は大分跡へ引さがつて御出にて、銘々にも先へ行け々々と 毎に世話を致され、其上合点の参らぬは何町とやらを通る時、
さらは 貞か連たる玉造同心も兎角 跡へ々々と後れて、跡部の胴勢の中へ這入たりと見へたり。
又其上に、跡部の総勢の通り過た跡の木戸まて〆たること也。さりとは憶したることにて、此耕助一人にはあらし。大分後れたるものゝある故、跡部か世話をやつて先へ行ケ々々と云たることゝ見へたり。
是等も 必竟は貞か法合(令)のあしきゆへと面目なき事なり。