Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.22訂正
2000.3.25

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「咬 菜 秘 記」その15

坂本鉉之助

『旧幕府 3巻1号 』(裳華房) 1899.1 より


◇禁転載◇

適宜、句読点・改行をいれています。


〔乱の発生と大塩邸周辺の動き〕

平八郎方には、前夜より余程人数を呼集置、早天より屋敷内にて度々鉄砲を打、其度々鬨声を上る故、合壁のの屋敷にては、是は鉄砲の稽古を初たることゝ思ひたる由。

貞か娘一人、忍の藩 和田孫兵衛へ嫁して かの屋敷にありしか、孫兵衛は主用にて出府するとて、去る十三日に発足せし留守にて、同藩の下役抔来りて、

と申。か云には、 と云て 不思議に思ひ居し内に、砲祿玉を建国寺へ打掛、一ツ盲目玉にて発せす、一つは建国寺の屋根にて発したれは、夫より何も驚き出し、御宮へ ケ様のこと有ては 甚如何なれは、直に断を云へし とて、下役内に代官を勤る加藤宗三郎と云ものは、幸 是迄 大塩か学文の弟子なれは、直に其 宗三郎を使にして遣り、宗三郎 大塩か 門前へ行て見れは、門口を〆切て、内は多人数騒々敷様子なれは門を叩て、 と云けれは、閨(闢)を少し明て、渡辺良左衛門 顔を出して云には、 と申。

其面躰 何か塩硝にても付たるか 真黒にて、異体なれは、宗三郎大に驚、其儘無言にて馳帰りて、夫よりの屋敷にても驚出したるよし。

間もなく大塩自分の居宅へ火をかけ、夫より討出たりと云事なり。

最初に 宅にて無情に鉄砲を放て鬨声を揚たるは、済之助が迯帰て、陰謀露顕の事を語りたるゆへ、然らは 此まゝ居ては 是非討手か参るへしとて、討出る支度の整ふ間、討手除の驚(繋)くに大砲を放せしなるべし。

又、玉造与力の米倉倬次郎も、去年まて大塩塾に居たる門人なれは、天満の火事と聞て、直に大塩へ見舞に駈行たるに、はや 討出たる跡にて本宅 土蔵は焼失して、隣の明屋敷に諸生の塾のありしは未焼失せす、誰も一人も居ぬ故、其諸生塾へ行きみれは、今迄酒飯の呑喰をせし躰にて、盃盤狼籍なる事なれと、是にも一人も居す、庭に 三四貫目玉計の木砲一挺、捻の所打破りて捨てあり。

異なる事と思ひ、近辺にて 頻に大砲の音 聞へけれは、先是 唯事にあらす とて直に駈帰りたり。

又、貞か稽古場へ 柴田勘兵衛も出席にて、天満辺の火事にて 貞か

と云時、和田孫兵衛の江戸留守の事をも勘兵衞心得居て、娘と小児計にて迷惑あるへくを思ひ、貞か代りに 和田へ火事見舞に行へし と云故、 と云置て 貞は出たる也。

勘兵衞、直に和田へ行たる時は、大塩の本宅 土蔵も焼て、少し火勢の鎮りたる所にて、建国寺の庭の築山より見れは、塀一重向ふにて、先つ 是ならはの屋敷も気遣ひあるまい と皆かいふ位にて、是も一通りの火事斗にてはなく、何か騒動之躰を聞て 驚たる折節、留守宅より 玉造御門に惣出とて、迎の者駈来りて 急て帰りし頃は、天満橋へ はや 御城代之人数は出て 固て居たりと云。

 御宮の御炎上なりたるは 此日の夕方にて、仏光寺の焼て棟の落たるあをち(り)にて、西の方より焼来りて、卒に 御宮迄炎上なり


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