『旧幕府 3巻1号 』(裳華房) 1899.1 より
跡部の玄関へ行て与力に応対せし折節、次之間の取次か、雑木の棒火矢の焼からをさし揚て、
京橋組は、御定番未と(登)坂なく *1、遠藤殿の預りにて支配なれは、玉造組と同様の達にて、同心支配役は広瀬(次)治左衛門、与力は国分彦一に今一人誰とか町奉行所警衛にあたり、畑佐秋之助は馬場左十郎方へ参り居 催促あり。
然る所、広瀬次(治)左衛門、何分迷惑あり御断を申度 と貞か所へ相談に来る折節、右彦一か父隠居多門と云者、上本町の出口へ詩(待)受居て、治左衛門へ云には、町奉行所へ警衛の義は甚不承知に付、悴差出方之義は何分断の旨、治左衛門へ申述。
次(治)左衛門も、素より其心得にて東役所へ参り、貞へ彼是相談あれ共、貞 頓着不致、其所へ畑佐秋之助参り、又夫々申談すれ共、是もと埒明ぬわけにて、無拠引返して、同心を引具して参り、東役所の前に居並たる由、
同志(心)中も三十人は俄に揃兼たる趣也。
其所へ、西奉行伊賀守、御城代より場所へ出馬の義 御達にて東役所へ立寄、跡部へ出馬の義を通逹して、跡部より先へ東役所を出、門前に京橋組の並居たるを見ていはるゝには、
治左衛門も同様に差図して同心中に打掛させたる所、堀の乗居たる馬、鉄砲の音に驚きはねて、堀落馬あるを、京橋同心中は、賊徒の鉄砲に中りて落馬と思ひ、即時に はつと散乱いたし、堀は詮方なく御祓筋の会所へ入、休息あり。
註*1 米倉丹後守(武蔵金沢)は天保7年11月〜安政4年5月まで京橋口の大坂定番。乱のときは未着任。