Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.4.10
2000.5.22訂正

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「咬 菜 秘 記」その16

坂本鉉之助

『旧幕府 3巻1号 』(裳華房) 1899.1 より


◇禁転載◇

適宜、句読点・改行をいれています。


〔東町奉行所の初動、西町奉行堀の落馬〕

跡部の玄関へ行て与力に応対せし折節、次之間の取次か、雑木の棒火矢の焼からをさし揚て、

と申せし時、唯一口に返答はしたれとも、如何して早く其矢くらを取次か取持せし事哉 と思ひしか、跡にて聞けは、天満橋の南詰の町家へ、朝の中に大塩か居宅から打掛けたるを、町家の者共胆を消して驚入、是は直に御役所へ訴へねはならぬと、其火矢を持て駈て参て、玄関へ其由を訴へ、嘸驚て直に厳敷詮議もあるべしと思ひの外、何の尋も詮議もなく、疾よ承知と云躰にて、よしよし夫を置て帰れ、と計の返答にて、是も又不思議に思ひて帰りしか、果して此程騒動になりしと、右の町家ものゝ話なるよし

京橋組は、御定番未と(登)坂なく *1遠藤殿の預りにて支配なれは、玉造組と同様の達にて、同心支配役は広瀬(次)治左衛門、与力は国分彦一に今一人誰とか町奉行所警衛にあたり、畑佐秋之助馬場左十郎方へ参り居 催促あり。

然る所、広瀬次(治)左衛門、何分迷惑あり御断を申度 と貞か所へ相談に来る折節、右彦一か父隠居多門と云者、上本町の出口へ詩(待)受居て、治左衛門へ云には、町奉行所へ警衛の義は甚不承知に付、悴差出方之義は何分断の旨、治左衛門へ申述。

(治)左衛門も、素より其心得にて東役所へ参り、貞へ彼是相談あれ共、貞 頓着不致、其所へ畑佐秋之助参り、又夫々申談すれ共、是もと埒明ぬわけにて、無拠引返して、同心を引具して参り、東役所の前に居並たる由、

同志(心)中も三十人は俄に揃兼たる趣也。

其所へ、西奉行伊賀守御城代より場所へ出馬の義 御達にて東役所へ立寄、跡部へ出馬の義を通逹して、跡部より先へ東役所を出、門前に京橋組の並居たるを見ていはるゝには、

と差図あれば、 治左衛門、早速承知ら(し)て堀の先へ立、島町筋を西へ御祓筋の辺まて押往たる時、賊徒、高麗橋を東へ渡る打(折)節、白籏株(様)の者見へたるを、同心中に鉄砲打掛させ候様に、差図有之。

治左衛門も同様に差図して同心中に打掛させたる所、の乗居たる馬、鉄砲の音に驚きはねて、落馬あるを、京橋同心中は、賊徒の鉄砲に中りて落馬と思ひ、即時に はつと散乱いたし、堀は詮方なく御祓筋の会所へ入、休息あり。


*1 米倉丹後守(武蔵金沢)は天保7年11月〜安政4年5月まで京橋口の大坂定番。乱のときは未着任。


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