『旧幕府 3巻1号・6号』(裳華房、旧幕府雑誌社) 1899.1・6 より
次(治)左衛門は京橋外張へ参り、其由申により、同役馬場左十郎亦同道にて東役所へ参り、長屋前に立並て居たる所へ、貞其外淡路町より一先ツ休息に東役所へ帰る所にて出会せし事(也)。
其時はあの方より歩行し進み出て、貞へ挨拶有て、
貞が心には、京橋組は跡に残て 役所の警固なれば、支配役も同心中は役所の中に有てこそ 四方の警固も行届事なるを、門前にありて四方の警固は出来ぬ事にて、其上支配役斗門前に立て居るは、何共合点の行ぬ事と思ひ、
次(治)左衛門 最初貞へ申に、御譜代同然之組にて、町奉行の支配を請るは、組柄にも拘るの、又、頭の申付にても不得心の事は、幾度も申述て聴入のある抔、尤らしき理屈を付て申たる事は、皆本心になき偽言にて、畢竟する所は、怯憶して危き場へ出まいと思ふ心より、言を飾りて申せしなり。
其事調はずして、是非出る事になりてからは、前の偽言の事はーつも立す。頭の申付たる東役所の警固とあるを等閑にして、差図を請るは組柄に拘ると云たる町奉行の一言の誘引に付て、直に場所へ出掛、散乱したる抔、誠にとり所なき所為なり。
玉造同心斎藤多仲、火縄か不足なるべしとて、跡より火縄を持て、此方人数の跡を追駈て諸方尋廻り、場所より一先東役所へ引取りたり と聞て、島町筋東西より東役所の脇へ来りし時、広瀬治左衞門に出会、あの方より尋るには、
其節、治左衞門は 矢張雪踏かけにて、唯一人 松の樹の下の土手に立、四方を眺め居たるよし、多仲の話也。
是は外張へ帰る以前の事か。何分、御祓筋より高麗橋の東詰の賊徒を三匁五歩玉にて打て とあるは、堀か鉄砲の玉薬不案内にて差図ありとも、治左衛門か為打たるは、甚不束千万也。其上、白旗位の目当に而、火災の混雑中に鉄砲を打掛るも不心得千万なる事にて、是等は惣而 論はなく、三匁五歩の玉にて四町余も隔てたる所へ打掛たりとて、中るへき様もなく、賊反て知らすと居る位也。左すれば其あだ玉か、どれか市中の者に中りて怪我さすべき。
堀が落馬にて、早く人数か散乱に及し事も勿計の幸なるべし。
治左衛門、雪踏掛にて、自分の持筒も為持ぬ位の心得にては、迚も場合近く迫りて、勝利可有とは思はれず。左すれば 一向遠き所にて賊徒の方には更に分らぬ中に、人数散乱したるもまだしもの事歟と思はれ候。 京橋組平与力 東役所にて見掛たるは、武蔵八十之助 宮部逸作 曲淵禎三郎抔也。悉く若輩計にて、無程如何致して歟、悉く御城入して東役所には一人も居らん。ケ様の時、頃(頭)より達の義を等閑に致しては、今日の御奉公は何事を勤る心得に哉。
平生惰弱なる組風に哉あらん。跡にて仲間の者誰一人彼是と云ものもなき様ふなれは、一組惣て同様の心得とみゆれば、実に歎息する事なり。
此中に曲淵は隠居勝之助悴へ申聞るには、
志は殊勝にて、尤に聞へたり。此上は平生の心懸にて武辺に達し居たらば、又格別なる功も立へきこと也。併 是は一時の覚悟はかりにては行ぬ事にて、平常にあることなれば、武士は平生の心掛が肝要なるべし。