『旧幕府 3巻6号』(旧幕府雑誌社) 1899.6 より
山崎弥四郎は、壱丁目にて賊に出会し節も、貞か眼前にて働、松屋町北革屋町にても、貞か側にて 一同に浜側へ出掛、堺筋にては貞に引続、貞か紙屋の戸口に居し時は、向側 本多為助の側に居、耳の際より為助拾身(十匁)を打たる故、又西側袖壁の陰(蔭)へ入、夫より貞か次へ参居たる由。
其時、賊徒淡路町の東の方より 薬を込替ゑて、辻へ大筒を押出、此方へ向て打んと口薬へ火をさしたると(に)、手を振はして両度計は、さし様(損)、漸 口薬へ火さしたるに、唯 口薬計立て、立消なれば、其儘捨て、辻より東へ逃込たるを、弥四郎玉込を致し居て、其者を打取さるを残念と申居る。 此大筒辻は、駈出し後 改め見れは、折角玉薬を込めてありなから、巣口の所にありて捻元迄届かず
糟屋助蔵は、最初場処へ行と云時より必死と働く志もある故に、(小)頭田村藤蔵へ(は)頼みて火味の悪敷御鉄砲を取替て貰ひ、淡路町中程にて打たる自分の玉の、北側の軒へ中て、瓦の砕ケて落るを見て、是は玉を越せたりと心付たる旨咄候。両人共、流右に精心も明らかなる事にて感心せり。
岡崎金三郎は賊徒の中にて、大井到一郎を見掛たるゆゑ、火蓋をして打出を止めにしたりといふこと、貞か耳へ入たり。
何方にて到一郎を見掛けし哉、無心之、其上 到一郎を見たらば、当組よりは猶又(更)打取事本意なるを、火蓋を致し打たさると申心得方、甚如何敷と糺し候処、
金三郎申は
未だ敵も見得ぬ内に鉄砲を放ち掛る位の怯き心にて、中々 白き馬乗袴抔といふ事はよきか減の虚誕なり。此二階を打たる玉をも、弥四郎か見留居て、是れはけしからぬ、あふなき事をする、彼が側にはめつたに居られぬ と存たる由を咄候。
鉄砲の業前は、弥四郎 金三郎迚も為差違もなきに、ケ様に勇怯の相隔る事は、唯 心の持様の一ツにて大切なる事と存候。此弥四郎さへ場処にては覘ひもせず、口薬を込むと直に火縄を手に持て火を指て打たる由。
是等は又業の不鍛錬なる所にあり。
貞か紙屋の戸口にて玉込致したる所へ、覘ひ打たる賊徒の小玉は、余ほと委敷玉也。紙荷のかけに躰を隠し居たれば、乳より上くらひも出たる事にて、定て顔を覘ひて打たるなるへし。夫なれば覘を三寸はかり違ひたるなり。此多勢の同心中にて、此賊徒の鉄砲ほとに覘打の出来たるもの、壱人も無之かと存。
定て猟師にてもあるへしと察するなり。