『旧幕府 3巻6号』(旧幕府雑誌社) 1899.6 より
広瀬佐兵衛 高橋弥兵衛両人は堺筋の場処にて、跡に捨有之車台抔を取集め、西役所へ持参致したる旨、翌日 手柄の様に書付を以相届候。
夫故 両人か跡に残りし事 貞は不存。何故 跡部の取捨置れたる品を 此方へも不申聞、為運候哉、誠に入らさる事をいたす不心得なりと申達、
又跡にて聞けば、人足躰の者へ両人にて運居たるを、埒明ぬとて両人ともどもに往来の者へ申付、手伝せて運せたる由、又不入差出なり。
是等も畢覚は憶病なる仕業にて、貞に附従ひ居ては 又何方にて賊徒に出逢も不計ぬ事にて、尤散乱の賊徒の跡を尋廻るといふ所なれば、勇剛を心置るものならば、少も跡へは引ぬ所なり。其上ケ様の所にては法令行伍の事第一の大事に候を、支配へも不尋 跡へ引戻す致し方抔は、実に法令行伍の崩れなり。夫故致方甚不宜と即座に申渡したり。
むかし蒲生家没収の節、彼の家臣に武巧名誉の蒲生源左衛門といふ者、尾州 紀州御(殿)両家より取抱らるへきとの事にて大分六ケ敷くなるへき模様故、公儀より御差図にて右源左衛門は酒井讃岐守殿家へ抱られ、其後源左衛門宅へ護岐守殿請待致す節、家中の諸士相応の用事承るへき迚見込へば、其々人柄を見立て此義を世話給れと頼む。其頼まれたる掛りの用を承りながら、少にても他人の請取前の事を差出ると源左衛門心に叶わず、不入世話なりとて制止されたる由。是は皆蒲生家武備の余風なりと申事あり。武士たるもの今日平生の処にても、此所の心得ありたき事なり。